水曜日, 12月 14, 2011

徒然草絵抄より



































四 
行 






http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/nk5/image/nk5hf/nk5h0028.html

京都大学附属図書館所蔵 日本古典文学 『徒然草絵抄』 [v. 1, pp. 54- 55]


http://protozoa.blogzine.jp/diary/2005/09/post.html

徒然草 第五十二段

 仁和寺にある法師、年寄るまで岩清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとり、徒歩より詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりかと心得て帰りにけり。
 さて、かたへの人にあひて、「年比思ひつること、果たし侍りぬ。聞きしに過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。
 少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。

<口語訳>
 仁和寺(にんなじ)のある法師、年寄るまで石清水を拝まなければ、心憂く思って、ある時思い立ち、ただひとり、徒歩で詣でました。極楽寺・高良などを拝んで、こればかりかと心得て帰ってしまわれた。
さて、かたわらの人にあって、「年頃(長年)思っていたこと、果たしました。聞きしにまして尊くあられました。それにしても、参られた人ごとに山へ登るのは、何事でありましょう、心引かれましたが、神へ参るこそ本意なのだと思って、山までは見なかった」と言いました。
少しのことにも、先達は望ましい事だ。

<意訳>
 仁和寺のある坊主。年寄りになるまで岩清水を拝まなかったのを、なんとなく寂しく思っていた。
 ある日、この坊主は思い立って、たった一人、徒歩でとほとほ岩清水を詣でた。山のふもとにある極楽寺や高良神社を拝むと、こんなものかと心得て寺に帰った。
 さて、寺に戻り知り合いに会うと坊主は言った。
「いやいや、長年思っていた事をついに果たしました。岩清水をお参りしてきたのです。聞きしにまさる尊いお姿で御座いましたぞ♡それにしても、参拝に来た人達がみな山の上に向かっていたけれども、興味もありましたが、岩清水を拝むのが本意と心得て山には登りませんでした!」
 山の上こそ、岩清水そのものであるのだが。ささいな事でも、先達の案内は必要である。


http://www.tsurezuregusa.com/contents/52.html
http://www.tsurezuregusa.com/index.php?title=Category:%E5%BE%92%E7%84%B6%E8%8D%89

1.徒然草 序
http://www.tsurezuregusa.com/contents/0.html
85.狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。
http://www.tsurezuregusa.com/contents/85.html
139.家にありたき木は、松・桜。松は、五葉もよし。
http://www.tsurezuregusa.com/contents/139.html

5 Comments:

Blogger yoji said...


http://www.tsurezuregusa.com/index.php?title=%E5%BE%92%E7%84%B6%E8%8D%89%E3%80%80%E7%AC%AC%E5%85%AB%E5%8D%81%E4%BA%94%E6%AE%B5

徒然草 第八十五段
現代語訳

人の心は素直でないから、嘘偽りにまみれている。しかし、生まれつき心が素直な人がいないとも言い切れない。心が腐っている人は、他人の長所を嗅ぎつけ、妬みの対象にする。もっと心が腐って発酵している人は、優れた人を見つけると、ここぞとばかりに毒づく。「欲張りだから小さな利益には目もくれず、嘘をついて人から崇め奉られている」と。バカだから優れた人の志も理解できない訳で、こんな悪態をつくのだが、この手のバカは死んでも治らない。人を欺いて小銭を巻き上げるだけで、例え頭を打っても賢くなる事はない。

「狂った人の真似」と言ってバス通りを走れば、そのまま狂人になる。「悪党の真似」と言って人を殺せば、ただの悪党だ。良い馬は、良い馬の真似をして駿馬になる。聖人を真似れば聖人の仲間入りが出来る。冗談でも賢人の道を進めば、もはや賢人と呼んでも過言ではない。



原文

人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず。されども、おのづから、正直の人、などかなからん。己れすなほならねど、人の賢を見て羨むは、尋常なり。至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎む。「大きなる利を得んがために、少しきの利を受けず、偽り飾りて名を立てんとす」と謗る。己れが心に違へるによりてこの嘲りをなすにて知りぬ、この人は、下愚の性移るべからず、偽りて小利をも辞すべからず、仮りにも賢を学ぶべからず。

狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。



注釈

下愚の性移るべからず
生まれつき最低の人間。「子曰ク。唯、上智ト下愚トハ移ラズ」と『論語』にある
驥(き)
一日に千里を走る駿馬。「驥ヲ睎(こひねが)フ馬ハ、亦、驥の馬ナリ。顔ヲ睎フ人ハ、亦、顔ノ徒ナリ」と『揚子法言』にある。
舜(しゅん)
中国古代の聖帝。「鶏鳴ニシテ起キ、孳(じ)々トシテ善ヲ為ス者ハ、舜ノ徒ナリ」と『孟子』にある。
徒然草 第八十四段
徒然草 第八十六段
カテゴリ: 徒然草 | つれづれぐさ上 | 信仰上の失敗があったとき | 危機に直面したとき | 困難な状況になったとき | 恐怖におそわれたとき | 非難され、ひどい仕打ちをうけたとき




狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。
悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。
驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。
偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。

10:32 午前  
Blogger yoji said...

二代目に破る扇の風

「人 の 家 に あり たい もの は、 梅・桜・松・楓」 と『 徒然草』 にあるが、それよりあってほしいものは、金銀米銭であろう。

西鶴
永代蔵2


一、『 徒然草』 一 三 九段「 家 に あり たき 木 は、 松・桜、 松 は 五葉 も よし」 に よる。 その 風雅 を「 金銀 米銭」 に 逆転 する。

11:30 午前  
Blogger yoji said...

徒然草 第百三十九段
http://www.tsurezuregusa.com/index.php?title=%E5%BE%92%E7%84%B6%E8%8D%89%E3%80%80%E7%AC%AC%E7%99%BE%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B9%9D%E6%AE%B5
現代語訳

家に植えたい木は、松と桜。五葉の松も良い。桜の花は一重が良い。「いにしえの奈良の都の八重桜」は、最近、世間に増え過ぎた。吉野山、平安京の桜は、みな一重である。八重桜は邪道で、うねうねとねじ曲がった花を咲かせる。わざわざ庭に植えることもないだろう。遅咲きの桜も、咲き間違えたようで白ける。毛虫まみれで花を咲かせるのも気味が悪い。梅は白とピンクが良い。一重の花が足早に咲き、追って八重咲きの花がルージュを引くように咲くのは嬉しい。遅咲きの梅は、桜のシーズンに重なり、適当にあしらわれ、桜に圧倒されて、情けなく悲惨である。「一重の梅が、最初に咲いて、最初に散っていくのは、見ていて潔く気持ちがよい」と、藤原定家が軒先に植えていた。今でも定家の家の南に二本生えている。それから、柳の木もオツなものだ。初春の楓の若葉は、どんな花や紅葉にも負けないほど煌めいている。橘や桂といった木は年代物で大きいのが良い。

草は、ヤマブキ・フジ・カキツバタ・ナデシコ。池に浮かぶのは、ハチス。秋の草なら、オギ・ススキ・キキョウ・ハギ・オミナエシ・フジバカマ・シオン・ワレモコウ・カルカヤ・リンドウ・シラギク、そして黄色いキク。ツタ・クズ・アサガオ。どれも、伸びきらず、塀に絡まらない方が良い。これ以外の植物で、天然記念物や、外来種風の名前の物や、見たこともない花は、まるで愛でる気にもならない。

どんな物でも、珍品で、入手困難な物は、頭の悪い人がコレクションして喜ぶ物である。そんな物は、無いほうが良い。
原文

家にありたき木は、松・桜。松は、五葉もよし。花は、一重なる、よし。八重桜は、奈良の都にのみありけるを、この比ぞ、世に多く成り侍るなる。吉野の花、左近の桜、皆、一重にてこそあれ。八重桜は異様のものなり。いとこちたく、ねぢけたり。植ゑずともありなん。遅桜、またすさまじ。虫の附きたるもむつかし。梅は、白き・薄紅梅。一重なるが疾く咲きたるも、重なりたる紅梅の匂ひめでたきも、皆をかし。遅き梅は、桜に咲き合ひて、覚え劣り、気圧されて、枝に萎みつきたる、心うし。「一重なるが、まづ咲きて、散りたるは、心疾く、をかし」とて、京極入道中納言は、なほ、一重梅をなん、軒近く植ゑられたりける。京極の屋の南向きに、今も二本侍るめり。柳、またをかし。卯月ばかりの若楓、すべて、万の花・紅葉にもまさりてめでたきものなり。橘・桂、いづれも、木はもの古り、大きなる、よし。

草は、山吹・藤・杜若・撫子。池には、蓮。秋の草は、荻・薄・桔梗・萩・女郎花・藤袴・紫苑・吾木香・刈萱・竜胆・菊。黄菊も。蔦・葛・朝顔。いづれも、いと高からず、さゝやかなる、墻に繁からぬ、よし。この外の、世に稀なるもの、唐めきたる名の聞きにくゝ、花も見馴れぬなど、いとなつかしからず。

大方、何も珍らしく、ありがたき物は、よからぬ人のもて興ずる物なり。さやうのもの、なくてありなん。


注釈

京極入道中納言
藤原定家。歌人。古典学者。『新古今和歌集』『新勅撰集』の選者。日記に『明月記』がある。

11:32 午前  
Blogger yoji said...

http://www.tsurezuregusa.com/contents/139.html

11:42 午前  
Blogger yoji said...

http://www.tsurezuregusa.com/contents/85.html

11:44 午前  

コメントを投稿

<< Home