日曜日, 12月 25, 2011

ガンジーの遺言:付リンク(自立分散的生産のススメ)

参考:
生産の分散
https://freeassociations2020.blogspot.com/2020/07/decentralization-of-production.html
(邦訳『自立の思想』は入手困難だが原文は公開されている)

追記:
2021年電子書籍化された。


《政治権力がなければできないこともあるのは認めましょう。しかし、政治権力にまったく頼らなくてもできることも、山のようにあります。》

『ガンジー・自立の思想』より

https://www.amazon.co.jp/dp/B0918ZFZD6/

原文:
Chapter 2 Birth of Khadi (hand-spun cloth) カディーの誕生

Social Reform without Depending on Political Power 政治権力に頼らない社会改革


ガンジー・自立の思想 自分の手で紡ぐ未来 Kindle版 

5つ星のうち4.5      13個の評価
https://www.amazon.co.jp/dp/B0918ZFZD6/

●政治権力に頼らない社会改革
 〈「ハリジャン」紙の読者からの投稿〉 
「政治権力を得ないことには、大きな改革を達成することは不可能だと思われませんか。現在の経済構造の問題にも取り組まねばなりません。政治の再構築なくしては、どんなことも建て直すことは不可能です。白米と玄米、バランスのとれた食事、などなどについて語ることは本当にどうでもよいことのように私には思われます」。

 〈回答〉  
 多くのことが達成できない言い訳として、このような主張がなされるのを私はよく聞きます。政治権力がなければできないこともあるのは認めましょう。しかし、政治権力にまったく頼らなくてもできることも、山のようにあります。
  私は投稿者にひとつの提案をしたいと思います。毎日やったことのすべてを詳細にメモしてください。そうすればそのうちの多くのことを政治権力とは何ら関わりなく行っていることがわかるでしょう。自分では何もできないと勝手に思い込んでいるだけなのです。自立しようと思いさえすれば、すぐに自立できます。  投稿者は、「大きな」改革という怪物を引きずり出しておきながら、それに取り組むのは避けようとしています。小さな改革もできない者が、大きな改革をなせるわけは決してありません。自分に与えられたものを最大限に利用する者が、自分にできることをさらに増やしていきます。そして、かつては大きな改革に思えていたことが、実際は小さなものであることに気づきます。このように生活を律する者が、真に自然な生活を送ることとなるのです。そのような状態になるためには政治的目標を忘れねばなりません。あらゆる問題をあらゆる段階において、すべて政治的目標の観点から考えていたのでは、余分な埃を舞いあげるだけです。どうすることもできないことにどうして頭を悩ますのですか。自分の死期が来る前にどうして死ぬことがありましょうか。 
 だから私は、ビタミン、葉野菜、玄米などについて話し合うことに最も興味がそそられます。だから私は、トイレをきれいにするにはどうするのが一番よいかを考え出すことに没頭したのです。毎朝母なる大地を汚す重大な罪から人々を救い出す最善の方法は何かというのが私の最大の関心事となりました。このような必須の問題について考え、解決策を見つけることに政治的重要さがないなどと言われるのはどうしてか、私にはよくわかりません。政府の財務を検査することが、どうしていつも政治的意味を持つこととなるのでしょうか。
  私にはっきり言えるのは次のことです。今私がやっており、大衆にもやることを求めている仕事は、大半の人々にできることですが、一方で我々の支配者の政策を吟味することは彼らの手には負えません。そのようなことは少数の人々が責任を持って行えばよいことです。私は口を挟むつもりはありません。そのようなことができる人たちが彼らの能力の最大限を使ってやるのに任せておいたらよいのです。しかし、これらのリーダーたちが大きな変化を現実に成し遂げるまで、私を含めた大勢の人々が、神から授けられた贈り物であるこの体を最大限に生かすことをしてはならないということがどうしてありましょうか。人々が、自分たちの体を使って、人のために働こうとしてはならないことがどうしてありましょうか。彼らが自分たちの玄関や周囲から埃や塵を取り除いてはならないことがどうしてありましょうか。人々がいつも病気にかかってばかりで、自分も他人も助けられない状態でいるべきだなどということがどうしてありましょうか。 
 そのようなことは決してありません。投稿者の質問には、私たちの多くも取りつかれている怠惰、絶望、憂鬱が見え隠れしています。自由を求める情熱においては私は誰にも負けていないと、自信を持って主張できます。疲れたり、憂鬱になったりしたことは一度もありません。長年の経験から確信しているのですが、私が精力と関心を注ぎ込んで行っていることは、国家の自由を達成するための計算に基づいてなされています。そして、その中にアヒンサー(不殺生・非暴力)によって自由を獲得する秘訣があります。だからこそ、私は男も女も、老いも若きもすべての人に、大いなる貢献のために各自がなせることを提供してもらいたいと呼びかけているのです。


生産の分散
聞き手 問題け分配にあります。生産のほうでは、高度な完成の域にまで達しましたが、分
配にはまだ欠陥があるのです。分配が平等に行われるようになれば、大量産もその弊害を
除去できるのではないでしょうか。
ガンジー
いいえ、欠点はこのシステム固有のものです。生産を各地で分散して行って初め
て、分配は平等に行えるようになります。つまり、生産と同時に分配が行われるようになら
ない限り意味がありません。自分たちの商品を売るために外部の市場を開拓しようと思って
いる限り、分配が平等に行われることはありえません。
西洋が成し遂げた科学の驚異的な進歩や組織が無用の物ということではありません。西洋
の人々も彼らの技術を活用すべきです。ただし、善意から自分たちの技術を外国で利用した
いと思うのであれば、アメリカ人は次のように言うべきです。「我々は橋を作る技術を持っ
ています。それを秘密にしておくつもりはありません。全世界に教えてあげたいのです。橋
の作り方を教えてあげましょう。もちろん代価を要求するつもりもありません」と。また

アメリカ人は次のようにも言うことでしょう。「他の国が小麦一粒育てるところ、我々は二…


Decentralization of Labour 生産の分散
Q. There the fault lies in distribution. It means that, whilst our system of production has reached a high pitch of perfection, the distribution is still defective. If distribution could be equalized, would not mass production be sterilized of its evils?
A. No, the evil is inherent in the system. Distribution can be equalized when production is localized; in other words, when the distribution is simultaneous with production. Distribution will never be equal so long as you want to tap other markets of the world to dispose of your goods.
That does not mean that the world has not use for the marvellous advances in science and organization that the Western nations have made. It only means that the Western nations have to use their skill. If they want to use their skill abroad, from philanthropic motives, America would say, ‘Well, we know how make bridges, we won’t keep keep it a secret, but we say to the whole world, we will teach you how to make bridges and we will charge you nothing.’ America says, ‘Where other nations can grow one blade of wheat, we can grow two thousand.’ Then, America should teach that art free of charge to those who will learn it, but not aspire to grow wheat for the whole world, which would spell a sorry day for the world indeed.

Q. Then, you do not envisage mass production as an ideal future of India?
A. Oh yes, mass production, certainly, but not based on force. After all, the message of the spinning-wheel is that. It is mass production, but mass production in people's own homes. If you multiply individual production to millions of times, would it not give you mass production on a tremendous scale? But I quite understand that your "mass production" is a technical term for production by the fewest possible number through the aid of highly complicated machinery. I have said to myself that that is wrong. My machinery must be of the most elementary type which I can put in the homes of the millions.
Under my system, again, it is labour which is the current coin, not metal. Any person who can use his labour has that coin, has wealth. He converts his labour into cloth, he converts his labour into grain. If he wants paraffin oil, whcih he cannot himself produce, he used his surplus grain for getting the oil. It is exchange of labour on free, fair and equal terms---hence it is no robbery. You may object that this is a reversion to the primitive system of barter. But is not all international trade based on the barter system?
Look, again, at another advantage, that this system affords. You can multiply it to any extent. But concentration of production ad infinitum can only lead to unemployment. You may say that workers thrown out of work by the introduction of improved machinery will find occupation in other jobs. But in an organized country where there are only fixed and limited avenues of employment, where the worker has become highly skilled in the use of one particular kind of machinery, you know from your own experience that this is hardly possible. Are there not over three millions unemployed in England today? 
I hate privilege and monopoly. Whatever cannot be shared with the masses is taboo to me. That is all.

INTERVIEW TO CALLENDER  LONDON, [October 16, 1931]
An American Press correspondent. Pyarelal Nayar, from whose article "Mass Production versus Production by the Masses", this has been extracted does not mention the name. This and the date of the interview have been taken from the manuscript of Mahadev Desai’s Diary, 1931.
The interviewer had earlier met Ford in America, who had put forward the view that demand for cheaper things would stimulate mass production.

Harijan, 2-11-1934

。。。


ヒンドゥー教→ショーペンハウアー→トルストイ→ガンディー

ガンディーは、結果的にヒンドゥー教(インド哲学)からの影響を再確認したことになる。
(ただし、トルストイは基本的にはキリスト教に思想的基盤があるし、ガンジーはラスキンの『この最後の者にも』をベンガル語に翻訳しているくらいなので、キリスト教の影響を間接的には受けている。)




http://yojiseki.exblog.jp/3108522/
(2006年1月初出記事)

今から58年前の1948年1月30日午後5時、ガンジーは対イスラム強行派のヒンズー教徒の青年に暗殺された。ガンジーの遺稿詩として知られるものもあるが(※)、あまり知られていないものとして、ガンジーが死の前日に提出した新たなインドの組織案がある。


ガンジーは国民会議派を協会(サンガ)に移行させようとしていたのだ。
そ れは具体的には70万ある農村に成人男女5人ずつのパンチャーヤト(語意は五人会議というインド農村の昔ながらのグループ)を作り、さらに二つのパン チャーヤトは指導者を一人互選する。そして選ばれた50人の指導者からさらに指導者が選ばれ、200のパンチャーヤトは100づつの平行するグループとな り、このようなグループがインド全土をおおうことになる。各指導者たちはそれぞれ手紡ぎ綿布着用義務をもち、名簿管理などを行う。さらに全体としての協会 は、手紡ぎ綿布、農業、教育、人権、動物愛護といった5つの支部を持つ、というものだ(みすず書房『わたしの非暴力2』)。

こうしたガンジーの案はその後、必ずしも現実化されたわけではないが、この案から小さな単位を大事にするガンジーの理念はよく伝わる。
特に出発点に二つの5人会議から互選で指導者を選ぶあたりが、ガンジーはイスラム教とヒンズー教といった政治レベルの対立をミクロレベルで解決するモデルを作ろうとしていたのではないかと思わせて興味深い。
(興 味深いのは活動家は村民と「個人的な接触を持つこと」=「顔見知りになること」が求められていることだ! 上記書籍『わたしの非暴力2』p328、あるい はレグルス文庫『非暴力の精神と対話』74頁参照。後者ではその活動家は「平和部隊(シャンティ・ダール)」と呼ばれている。)

ガンジー が実践した手紡ぎ車(チャルカ)などは、自立分散的生産システムによる対抗手段だったし(地湧社『ガンジー自立の思想』)、聖人視されるか逆に軽視される 傾向にあるガンジーは実に経済的にも政治的にも現実的な視点を持った人だったのだ(塩の行進も必需品を自国で生産したいという経済的根拠を持っていた)。 また、今日的にガンジーの考えを応用するならば、コンピューターなども自立分散的に活用可能なものだと思う。

このように、ガンジーの遺志は私たちに託され、その実現へ向けた試みは今現在もまだ続いていると考えた方がいいだろう。

追記:

「わたし自身の体験から集約したいくつかの規約」

(一) 隊員はいかなる武器も所持してはならない。
(二) 平和部隊の隊員は容易に見分けがつくよう配慮すること。
(三) 全隊員が応急処置にあたれるよう、包帯・はさみ・針と糸・外科用ナイフ等を所持すること。
(四) 隊員は負傷者の運搬や移動の方法を知っておくこと。
(五) 隊員は、消火の方法ならびに、火傷を負わずに火事場に入る方法、また、荷物のあるなしに関係なく救出作業のために高い塀をよじ登り、無事に降りる方法を知っておくこと。
(六) 隊員は受け持ち地区のすべての住民と顔見知りになること。このこと自体、一つの奉仕である。
(七) 隊員はたえず心に神の御名(ラーマヤーナ)をとなえ、信仰をいだく多の人びとにもそうするよう勧めること。

一九四六年四月二十六日 ニューデリーにて (「非暴力の義勇隊」『ハリジャン(神の子)』一九四六年五月五日号)
(『非暴力の精神と対話』73−4頁)


ガンジーの死の3ヶ月前に書かれた詩として知られているものに以下がある。

 束縛があるからこそ
 私は飛べるのだ
 悲しみがあるからこそ
 高く舞い上がれるのだ
 逆境があるからこそ
 私は走れるのだ
 涙があるからこそ
 私は前に進めるのだ

   マハトマ・ガンジー 〔遺言詩〕

追記:

塩の行進も必需品を自国で生産したいという経済的根拠を持っていた
書評:
ガンジー・自立の思想―自分の手で紡ぐ未来 [単行本]
M.K. ガンジー (著), 田畑 健 (編集), Mohandas Karamchand Gandhi (原著), 片山 佳代子 (翻訳)

ガンジーの思想は、自立分散型の生産システムを作ることで(手紡ぎ車)、民衆のための国家を作り得るというところに主眼がある。
貧困は、機械で「大量生産」し、それを分配にすることでは解決しない、生産のレベルで同時に分配がなされなければならないと云う思想は、情報化社会の中でも変わることのな
い指針となるべき考え方だ。
今までの、聖人化、偶像化されたガンジー像を身近に取り戻すと云う意味でも、読みやすく画期的な必読インタビュー集。


付録:

http://blog.livedoor.jp/yojisekimoto/archives/50790326.html
関本洋司サイト: ロールズとガンジーとシューマッハ - livedoor Blog(ブログ)


ロールズとガンジーとシューマッハ
 英語版及び定本『TC』で、ロールズ『正義論』フランス語版序文が言及されていましたが(p478)、現在入手困難なので主要箇所を引用します。講談社のシリーズ(現代思想の冒険者たち)でも引用されていた部分ですが、こちらも既に入手困難のようです。

 さらに、ガンジー、シューマッハの同種の考察も付記します。ガンジーのそれはガンジー思想の経済的裏づけとして重要ですし、シューマッハのそれは「修理・修繕」の見地から見て興味深いと思います。

/////以下、ロールズ、『正義論』フランス語版序文より/////////

 「この場合、はじめから少数者にではなく市民全員の手に生産手段が委ねられ、それによって市民が社会生活のためにじゅうぶんな協力体制を組めるように、諸制度を整備しなければならなくなる。強調されるべきは、ある期間を通じて資本および資源の所有が偏りなく分散され、しかもそうした所有の分散が、相続と譲渡に関する法律、機会の公正な均等を求める法律(それに基づいて教育や育成のための諸方策が認可される)、さらに政治的自由の公正な価値を守るための諸制度に関する法律によって、実現されるということである。」

                 川本隆史・米谷園江訳「みすず」No.385より(1993.4)

                 原典、ロールズ『正義論』フランス語版(1987)

//////以下、ガンジー『自立の思想』より///////////

 「生産を各地で分散して行って初めて、分配は平等に行えるようになります。つまり、生産と同時に分配が行われるようにならない限り意味がありません。自分たちの商品を売るために外部の市場を開拓しようと思っている限り、分配が平等に行われることはありえません。

 西洋が成し遂げた科学の驚異的な進歩や組織が無用の物ということではありません。西洋の人々も彼らの技術を活用すべきです。ただし、善意から自分たちの技術を外国で利用したいと思うのであれば、アメリカ人は次のように言うべきです。「我々は橋を作る技術を持っています。それを秘密にしておくつもりはありません。全世界に教えてあげたいのです。橋の作り方を教えてあげましょう。もちろん代価を要求するつもりもありません」と。また、アメリカ人は次のようにも言うことでしょう。「他の国が小麦一粒育てるところ、我々は二千粒育てることができます」。そして、アメリカは教えを請う者にその技術を無料で伝授するのです。しかし、全世界が必要とする小麦を自分たちで栽培しょうなどと企てるのはとんでもないことです。そんなことをすれば、この世にとっては実に惨めな時代の到来となるでしょう。」

              『ガンジー自立の思想』田畑健他訳P88?91地湧社より

/////以下、「中間技術」(星野淳さんの言葉で言えば「適正技術」)*に関して、シューマッハの『スモール・イズ・ビューティフル』からの引用。////////

 「ガンジーが語ったように、世界中の貧しい人たちを救うのは、大量生産ではなく、大衆による生産である。大量生産の体制のよって立つ技術は、非常に資本集約的であり、大量のエネルギーを食い、しかも労働節約型である。現に社会が豊かであることが、その前提になっている。なぜならば、仕事場一つ作るのにも、多額の投資を要するからである。大衆による生産においては、だれもがもっている尊い資源、すなわちよく働く頭と器用な手が活用され、これを第一級の道具が助ける。大量生産の技術は、本質的に暴力的で、生態系を破壊し、再生不能資源を浪費し、人間性を蝕む。大衆による生産の技術は、現代の知識、経験の最良のものを活用し、分散化を促進し、エコロジーの法則にそむかず、稀少な資源を乱費せず、人間を機械に奉仕させるのではなく、人間に役立つように作られている。              

 私はこれに中間技術という名前をつけたが、それはこの技術が、過去の幼稚な技術よりずっと優れたものではあるが、豊かな国の巨大技術と比べると、はるかに素朴で一安く、しかも制約が少ない性格をいい現わしている。自立の技術、民主的技術ないしは民衆の技術と呼んでもよい。要するに、だれもが使え、金持ちや権力者のためだけの技術ではないのである。」

          シューマッハ『スモール・イズ・ビューティフル』講談社学術文庫より

*シューマッハが、単に「消費手段」だけではなく「生産手段」そのものに、「修理・修繕」の原理をあてはめていることが特筆されると思います。

ロールズ

_____________






    スピノザ
プルードン    ヘーゲル
 マルクス 空海 カント
 坂本龍馬    ハイデガー
     柄谷 フロイト
ドゥルーズ    老子
 アドルノ    パーソンズ
 カレツキ ゲゼル
    ライプニッツ
 スポーツ    文学
     ガンジー
     ラカン
     ニーチェ


______________










老子


マルクス



柄谷





_____________


















































現行インド国旗、中央にチャルカ
(法輪ということになるが1921年版はガンジーが回していた糸紡ぎ機としてのチャルカが中央にある。ヒンズーと仏教の融和を意図した背景があったかも?)

:1921


CinemaScape/Comment: モダン・タイムス
http://cinema.intercritique.com/comment.cgi?u=3655&mid=724
この作品を制作する以前、チャップリンはガンジーと会う機会があり、機械文明を批判するガンジーに、「機械は便利な物ではないですか?」と尋ねた。ガンジーの答えは「便利さの追求は、幸福の追求とは別ものです」。その後、チャップリンはフォードの自動車工場を訪ね、そこで労働者が機械の部品のように働かされ、身心を病んでいる事を知る。そうした経緯があって生まれたのがこの、文明批判的なコメディ。 
工場での流れ作業は、経営者の一方的な効率追求によってスピードアップを求められ、それに従って、労働者の機械的な単純作業も、人間の限界を超える速度と正確さを強いられる。チャップリンがコミカルに演じているように、体が痒くなったり、傍に居る人に話しかけたくなる、といった、人間のごく自然な欲求を、一瞬たりとも許さない機械は、単純作業の反復によって、人間の身心を、機械的な条件反射の奴隷にしていく。 
食事マシーンに翻弄されるチャップリンや、チャップリンに食事を口に運んでもらう機械技師の姿から窺えるように、手はネジを締める為にのみ、頭は食事をする為にのみ存在するかのような労働者たちは、家畜さながらの扱いを受けている。それは映画の冒頭での、家畜の群れと通勤ラッシュが重なる場面に象徴的に表されているし、映画のタイトルで、時計が大写しにされているのも、機械の歯車による絶対的な支配体制を示している。
遂にチャップリンが大暴れする場面では、彼が工場の作業で強いられていた不自然な動作がそのまま、暴力的なアクションとして展開される。チャップリン自身に機械の横暴さが取り憑いたかのようだ。多分こうした点が、精神分析医のフェリックス・ガタリがチャップリンについて言っている、「純粋に無意味な反復効果」によって世界を「反転」してみせるユーモア、というものなのだろう。 (フェリックス・ガタリインタビュー~音の横断~ http://www9.big.or.jp/~np/tokijiku/tokijiku07.html

57 Comments:

Blogger yoji said...

http://blog.livedoor.jp/yojisekimoto/archives/50790326.html
関本洋司サイト: ロールズとガンジーとシューマッハ - livedoor Blog(ブログ)


ロールズとガンジーとシューマッハ
 英語版及び定本『TC』で、ロールズ『正義論』フランス語版序文が言及されていましたが(p478)、現在入手困難なので主要箇所を引用します。講談社のシリーズ(現代思想の冒険者たち)でも引用されていた部分ですが、こちらも既に入手困難のようです。

 さらに、ガンジー、シューマッハの同種の考察も付記します。ガンジーのそれはガンジー思想の経済的裏づけとして重要ですし、シューマッハのそれは「修理・修繕」の見地から見て興味深いと思います。

/////以下、ロールズ、『正義論』フランス語版序文より/////////

 「この場合、はじめから少数者にではなく市民全員の手に生産手段が委ねられ、それによって市民が社会生活のためにじゅうぶんな協力体制を組めるように、諸制度を整備しなければならなくなる。強調されるべきは、ある期間を通じて資本および資源の所有が偏りなく分散され、しかもそうした所有の分散が、相続と譲渡に関する法律、機会の公正な均等を求める法律(それに基づいて教育や育成のための諸方策が認可される)、さらに政治的自由の公正な価値を守るための諸制度に関する法律によって、実現されるということである。」

                 川本隆史・米谷園江訳「みすず」No.385より(1993.4)

                 原典、ロールズ『正義論』フランス語版(1987)

//////以下、ガンジー『自立の思想』より///////////

 「生産を各地で分散して行って初めて、分配は平等に行えるようになります。つまり、生産と同時に分配が行われるようにならない限り意味がありません。自分たちの商品を売るために外部の市場を開拓しようと思っている限り、分配が平等に行われることはありえません。

 西洋が成し遂げた科学の驚異的な進歩や組織が無用の物ということではありません。西洋の人々も彼らの技術を活用すべきです。ただし、善意から自分たちの技術を外国で利用したいと思うのであれば、アメリカ人は次のように言うべきです。「我々は橋を作る技術を持っています。それを秘密にしておくつもりはありません。全世界に教えてあげたいのです。橋の作り方を教えてあげましょう。もちろん代価を要求するつもりもありません」と。また、アメリカ人は次のようにも言うことでしょう。「他の国が小麦一粒育てるところ、我々は二千粒育てることができます」。そして、アメリカは教えを請う者にその技術を無料で伝授するのです。しかし、全世界が必要とする小麦を自分たちで栽培しょうなどと企てるのはとんでもないことです。そんなことをすれば、この世にとっては実に惨めな時代の到来となるでしょう。」

              『ガンジー自立の思想』田畑健他訳P88?91地湧社より

/////以下、「中間技術」(星野淳さんの言葉で言えば「適正技術」)*に関して、シューマッハの『スモール・イズ・ビューティフル』からの引用。////////

 「ガンジーが語ったように、世界中の貧しい人たちを救うのは、大量生産ではなく、大衆による生産である。大量生産の体制のよって立つ技術は、非常に資本集約的であり、大量のエネルギーを食い、しかも労働節約型である。現に社会が豊かであることが、その前提になっている。なぜならば、仕事場一つ作るのにも、多額の投資を要するからである。大衆による生産においては、だれもがもっている尊い資源、すなわちよく働く頭と器用な手が活用され、これを第一級の道具が助ける。大量生産の技術は、本質的に暴力的で、生態系を破壊し、再生不能資源を浪費し、人間性を蝕む。大衆による生産の技術は、現代の知識、経験の最良のものを活用し、分散化を促進し、エコロジーの法則にそむかず、稀少な資源を乱費せず、人間を機械に奉仕させるのではなく、人間に役立つように作られている。              

 私はこれに中間技術という名前をつけたが、それはこの技術が、過去の幼稚な技術よりずっと優れたものではあるが、豊かな国の巨大技術と比べると、はるかに素朴で一安く、しかも制約が少ない性格をいい現わしている。自立の技術、民主的技術ないしは民衆の技術と呼んでもよい。要するに、だれもが使え、金持ちや権力者のためだけの技術ではないのである。」

          シューマッハ『スモール・イズ・ビューティフル』講談社学術文庫より

*シューマッハが、単に「消費手段」だけではなく「生産手段」そのものに、「修理・修繕」の原理をあてはめていることが特筆されると思います。



1:37 午前  
Blogger yoji said...

第16節
・メモに公民権運動とか、ベトナム戦争とか、ニクソンショックとか書いてある。『正義論』が書かれた時代背景が話題になったのだろうと思う。
・このあたりの記憶が曖昧。
・アファーマティブアクションは、格差原理の典型というよりは、矯正原理の一例という感じがする。

第17章
・カースト制についてのロールズの知識は,非常に限られた(偏った)ものじゃなかろうか.少なくとも,文化人類学からみるような見地をもってないような気がする.
・優生学と世代間倫理に関する言及をどう読むか.
・ちなみに,ここで「責務」(145頁8行目)と訳されているものは,次節にある「責務」とは違う.次節の「責務」はobligationsの訳だけど,ここは直接「責務」に該当する単語はない感じでsomethingを「なんらかの責務」と訳してるみたい.「なんらかのもの」って出来なかったのだろうなあ..たぶん,こういうのってたくさんあるのだろうなあ.
・優生学と聞くとなんだか良い印象を受けないのだけど,ここで話題にしているであろうことは,おそらく公害問題なのだと思う.水俣病やイタイイタイ病のような公害病のことを念頭においているのだと思われる.70年代はそういう時代だったのだということ.

第18節
・直観的な「正」の概念→歯切れが悪い。否定的表現が多い。
・ここでも「解明」の概念が出てきている。ここでは、「難点を除去すること」と言われてる。

第22節
「自己への利害関心(interests in the self)」と「自己の利害関心(interests of a self)」の内容と違いがよくわからない。
the self と a self との違い、of はobjectiveか、subjectiveなのか。subjective だろう。

第23節
・一般性と普遍性の違い。
・最終性finality は、重要な概念の模様。


第24節
・諸条件によって特徴づけられた初期状態が原初状態。初期状態がさまざまあり、正義の二原理にふさわしい初期状態が原初状態ということらしい。
・無知のヴェール:原初状態を規定する条件のひとつ。

第25節
・嫉妬の排除。
原初状態の条件として嫉妬を排除してしまったら、原理は、嫉妬を説明できないものにならないだろうか。
→そうやって構想された正義は、社会に嫉妬を生じさせにくいものにする。嫉妬の生じにくい社会は、直観的にも望まれるということになるのではないか。
嫉妬の排除の手続きそのものが「反照的均衡」の手続となっているのだと考えられる。

・合理性自体が原初状態を特徴づける条件のひとつ。妬み以外の感情も、抑制されるのではないかと思われる。合理性を備えた人間は、自分の欲求を合理的思考に基づいて抑制するだろうと思われる。

第26節~第30節
・第26節以降は、反照的均衡の実践だと思う。
・平均効用原理と格差原理の接近:確率的要素が少なくなるほど、両者は近似する。
・平均効用原理を退けけるロールズの説明は批判に晒されているが、それらのロールズ批判が致命的なものであると見るか、弁明の可能性があると見るかは、これもまたいろいろと立場がある模様。
・ロールズのみる平均効用原理は、サイコロを振り続ければ平均値に近づく、長期的にみれば平均化する。
・古典的功利主義は、利他主義になるらしい。個人の区別を考慮しない。
・自分のことはおいておいて、全体の功利の最大化を目指す点が、利他主義に結びつくらしい。

1:50 午前  
Blogger yoji said...


第10節
・ここででてくる「形式的正義」と、後で出てくる「手続き的正義」はどう違うのか。
・ロールズの人間観は、性善説ではないだろうという指摘。

第11節
・暫定的って言われているので、「そーなのかー」って感じでスルーしたのは内緒。

第12節
・ここと次の節で、第11節の二原理が修正される。これも反照的均衡の
一例だろうか。
・「予期」という言葉もよくわからない。
・予期は、「期待値」だろうという解釈でどうか。よい仕事を持っている人々は、利益というか、功利とか効用というか、そういうのをたくさん生み出せると期待できる。そういう「期待の値」が「予期」なのではないか。
・効率性原理については、よく読めばなんとなくわかる。

第13節
・しかし、格差原理はわかりません。
・まず曲線が直線で表されているところで躓いた。
・x1の予期がx2の予期と相関関係にないから直線なのかしらん。
・それに対して、曲線OPはx1とx2の予期の相関関係を示してる。曲線OPと水平線が接する点が、一番いい感じでx1がx2の予期を向上させてる点。
・この点より右側は、x1がx2から搾取することで、x1の予期を向上させてることになる。
・ということは、相関関係がないから直線だというのは、違うかな?
・古典的功利主義の場合は、直線が斜めなのはなんでだ。
・x1とx2の立場が同じなら、斜め45度の直線からたくさんの垂線がでている図になるらしい。そのときに出来上がる直角三角形の面積が効用の総計となるっぽい。
・でも垂線じゃなくて、鈍角三角形になるように線がでているのは、x1の方が恵まれてるかららしい。格差がないなら、垂線になるのだそうです(伝聞系)。
・鎖状のつながりについては、下がったらダメよっていう印象しかない。

第14節
・完全な手続き上の正義が「まれ」なのは何故か。
・完全な手続き上の正義は、チーズケーキを切り分ける場合で、不完全な手続き上の正義は、クリスマスケーキを切り分ける場合。
・チーズケーキを正義に基づいて切り分けるなら等分に切るだけでよいけど、クリスマスケーキとか、いちごとかのデコレーションケーキだと、上に乗っているいろいろなデコレーションをどう分けるのかっていう別の分配基準も必要になってしまう。基準がたくさん増えて複雑になる。
・ケーキですら、こんな具合なのだから、他の事柄でも正義にかなったことをしようとすれば、たくさんの正義の基準をクリアするような複雑なことをしないといけないだろう。
・すっぱり、スッキリ配分したりなんてレアケースって意味で完全な手続き上の正義は、まれなのだろう。
・以上のケーキの例は、私が考えたのではないです。聞いたときは上手い例だと思ったので書いてみたけど、上手に記述できなかったかも。

第15節
・功利主義は、功利の最大化を実現するために個人の自由を制限する可能性がある。
・と、第15節のところにメモがあったので書いてみたけど、第15節と関係するメモなのかよくわからない。
・功利主義の場合は、功利の最大化に反する選択が制限されるけれど、それが個人の選択の自由と対立することもあるだろうっていう意図のメモなんだろう。

1:51 午前  
Blogger yoji said...

http://shogo1979.blog46.fc2.com/blog-entry-597.html
ファイルケース ロールズ『正義論』読書メモ

以下は個別に思ったりしたことの箇条書きです。文体が変わりますのでご注意をw

各節ごとに思ったことのメモ
改訂版の序文
・「デモクラシー」という言葉が頻出している。この序文によって『正義論』全体の意味合いを変更しようとしているのではないかと思う。
・正義の構想がフォローする範囲を「デモクラシー」に限定しているのではないか。それによって、文化相対主義的な立場からの反論であるとか、原初状態があまりに恣意的というか、西洋近代の社会だけにしか通用しない理論でしかないという批判を回避しようとしている(あるいは応答している)のではないか。
・とはいえ、この改訂版の序文をどう理解するかは、『正義論』への多種多様な批判の歴史等々を把握しないとダメなのだろう。

序文
・個人的にはクワインの「二つのドグマ」についてのコメントがあったのが印象的。

第1節
・正義の概念と正義の構想が区別されるものとして出てくる。第2節でもでてくるが、この二つの違いないがよくわかりませんw
・概念はconceptで、構想がconceptionの訳語なわけですが、conceptと対置されるconceptionは、概念を成立させる作用、概念を構成する能力のようなものだと思われます。おそらく『正義論』でもこの違いに基づいてるのだと思う。
・conceptionも、「構想」も、「概念を組み立てること」と「概念内容」と、両方を意味することができるわけですが、個人的には「構想」という言葉では、「概念内容」の方を想像するので、大変理解するのがむつかしくなってしまった。
・というわけで、次のように考えることができるのだと思う。すなわち、我々は正義の概念をすでに持っているので、ある事柄が正義であるのか否かを(直観的に)判定できるのだけど、正義の構想を持っていないので、なぜそのような判定を下せるのかを説明できないということ。

第2節
・アリストテレスが話題だされるけど、ロールズの主張が適切かどうか判定できず。不勉強。

第4節
・第9節と並んで超重要箇所だと思われます。
・しかし、よくわからず。
・この箇所以外でもでてくるけれど、「解明」(第4節では「解明のためのしかけ」)という言葉もまた、「反照的均衡」と関係する言葉であるように思われます。
・「解明」はおそらくカルナップに由来すると思う。
・反照的均衡によって、原理か「しっかりとした判断」(第9節)のどちらかが修正されるのだけど、その修正が「解明」なのではないかと思うのです。あるいは、原理と判断が一致することが判明することもまた「解明」と言えるのかもしれない。
・重要な概念のくせに「反照的均衡」は、節のタイトルになったりしないところがいやらしいと思う。

第5節
・主たる論敵となる功利主義に関する節なのに、覚えてない(汗)

第6節
・上に同じ(汗)
・第5節と第6節の説明が、他の箇所でどう影響しているのかがよくわからなかったために、ちょっと印象が薄い(言い訳)。古典的功利主義については第一部の最後で別の意味付けも行われていて、それとの関係を吟味すべきだったかも。

第7節
・直観主義。私はどっちかと言えば直観主義者。チョッカンバンザイ。
・ロールズの指摘する直観主義の特徴は、方法論的。通常は、認識論的側面が強調されると思う。特に倫理学の概説書なんかでは。
・児玉聡先生の『功利と直観』のロールズの説明の箇所(pp. 166-7)では、このロールズの直観主義の方法論的な側面の強調の結果、ロールズ以後の直観主義は認識論的側面よりも、ロールズと同じように方法論的側面によって特徴付けられるようになってきたらしい。
・第7節は、第8節のためにあると言っても過言じゃないんではないかな。
・直観主義の認識論的側面を強調しないのは、ロールズ自身がこの側面を完全には排除できなかったからではないだろうか。

第8節
・直観主義の致命的な欠点、複数原理間の優先順序を決定する記述の不在に対して、辞書式の順序の導入。
・なんで「辞書式」っていうのかよくわからない。
・「辞書編集上の」というのがより適切らしい。だとするとこの「辞書式」
という形容が意味するところは、Aの項目をすべて記述してしまわないと、Bの項目に移ることができないというような、辞書を作成、記述するときの手順のことか。
・いまと違って、当時はタイプライターとかだったろうから、ワープロソフトのように後から自由に挿入したり、削除したりとか、難しかっただろうと思うので、その辺りのことが想定されてるのかなあと思ったり。

第9節
・わけわからず。反照的均衡むつかしい。
・「しっかりとした判断」とは何か。ロールズは、いろいろと説明しているが、この判断の直観性は排除しきれてないと思う。
・よくあることだけど、正義感覚とか説明されずに使われてる。これとかまさに直観のことじゃないかな。
・合理性とか、正義感覚とか、いつか説明するの勘弁してくだざい。
・翻訳版p. 68最後の二行の直前のパラグラフが改訂版と初版で異なっている。初版にあったソクラテスに関する記述が削除されている。
原理を変える可能性があることを強く主張している箇所が削除されているみたい。
・初版と改訂版では、改訂版の方がページ数が減っているので、結構削除された部分は多いのかも。
・以下,暫定的な反照的均衡の理解。

1 原初状態からの原理が出てきて道徳理論を提示する。
2 直観的に「しっかりとした判断」をする。(個別的な道徳判断)
3 1と2を比較する。
4 一致しなかった場合、原初状態に戻って、原初状態の条件をもう一度修正して、
それから再度道徳理論を提示する。
5 再度提示した理論が一致した場合→一致したということは、直観によって得られた命題の説明、つまり導出形式、導出手順が明らかになったのであるから、その個別的な道徳判断は、直観に頼らず説明できたということになるだろう。

<比喩的な例>
・はじめに直観に頼っていた状態→文法知識はないけど、母国語が話せる状態。
・母国語の文法的説明が提示される。
・反照的均衡によって、文法的説明によって自分の話す母国語が上手に説明されていることを知る。

・反照的均衡は、作業としては単に原理と判断が一致するか否かを調べることだけど、一致した場合に、原理と判断の関係がどういう関係になるのかがよくわかってなかった。一致するということは、原理は判断という結果を説明しているということになる。これが「解明」ということか?
・こうやって文章化すると、概説書とかに書いてあることとそんなに変わらないなあ。
・「しっかりとした判断」はチェックポイントみたいなものか。チェックポイントをクリアするたびに、原理の確からしさは上昇するみたいな感じ。
・正義の構想が原理側で、正義の概念が「しっかりした判断」の側だろう。
・とはいえ、原理ばかりが修正されると、それは直観主義そのものじゃないかとって思ってしまう。
・判断の方を訂正すべきと結論できる場合は如何なる場合だろうか。原理と判断が不一致の場合に、両者のどちらを修正すべきであるかを決める基準はどこにあるのだろうか。それこそ、直観によるしかないように思うのだけど。

1:52 午前  
Blogger yoji said...

正義論: 紀伊國屋書店BookWeb

詳細


ロック、ルソー、カントに代表される社会契約の伝統的理論を受け継ぎ、功利主義の「最大多数の最大幸福」に取って代わる、著書が構想した“公正としての正義”とは…20世紀の名著、待望の新訳。

第1部 理論(公正としての正義;正義の諸原理;原初状態)
第2部 諸制度(平等な自由;分配上の取り分;義務と責務)
第3部 諸目的(合理性としての善さ;正義感覚;正義の善)

正義にかなう秩序ある社会の実現にむけて、社会契約説を現代的に再構成しつつ独特の正義構想を結実させたロールズの古典的名著。初版刊行から40年を迎え、《自由、平等、友愛》というフランス革命の理想を現代に生かそうとした同書の意義は、混迷する現代社会のなかで改めて高い評価を受けている。

あらゆる社会は、正義についての約束の上に成り立っている。しかし現代においても、正義の本質について十分明らかにされているとは言えない。本書で、現代リベラリズムの代表的論者であるロールズは、正義とは何かを徹底的に追求、社会契約の伝統的理論を一般化し、功利主義に取って代わりうる正義の構想を明らかにする。1999年の原著改訂版を新訳。

改訂版への序文
序文
第一部 理論
第一章 公正としての正義
 第1節 正義の役割
 第2節 正義の主題
 第3節 正義の理論の中心理念
 第4節 原初状態と正当化
 第5節 古典的功利主義
 第6節 付随する複数の相違点
 第7節 直観主義
 第8節 優先順序の問題
 第9節 道徳理論に関するいくつかの所見
第二章 正義の諸原理
 第10節 諸制度と形式上の正義
 第11節 正義の二原理
 第12節 第二原理の複数の解釈
 第13節 デモクラティックな平等と格差原理
 第14節 公正な機会均等と純粋な手続き上の正義
 第15節 予期の基礎としての社会的基本財
 第16節 関連する社会的地位
 第17節 平等を求める傾向
 第18節 個人に関する原理―公正の原理
 第19節 個人に関する原理―自然本性的な義務
第三章 原初状態
 第20節 正義の諸構想の擁護論の性質
 第21節 複数の選択候補の提示
 第22節 正義の情況
 第23節 正の概念の形式的諸制約
 第24節 無知のヴェール
 第25節 当事者たちの合理性
 第26節 正義の二原理にいたる推論
 第27節 平均効用原理にいたる推論
 第28節 平均原理にまつわるいくつかの難点
 第29節 正義の二原理を支持するいくつかの主要根拠
 第30節 古典的功利主義、不偏性、そして厚意
第二部 諸制度
第四章 平等な自由
 第31節 四段階の系列
 第32節 自由の概念
 第33節 良心の自由の平等
 第34節 寛容および共通の利益
 第35節 不寛容派に対する寛容
 第36節 政治的正義と憲法
 第37節 参加原理に対する諸制限
 第38節 法の支配
 第39節 自由の優先権の定義
 第40節 <公正としての正義>に関するカント的解釈
第五章 分配上の取り分
 第41節 政治経済学における正義の概念
 第42節 経済システムに関する若干の所見
 第43節 分配的正義の後ろ盾となる諸制度
 第44節 世代間の正義の問題
 第45節 時間選好
 第46節 優先権に関する追加的なケース
 第47節 正義の諸指針
 第48節 正統な予期と道徳上の功績
 第49節 混成構想との比較
 第50節 卓越性原理
第六章 義務と責務
 第51節 自然本性的な義務の原理の擁護論
 第52節 公正の原理の擁護論
 第53節 正義にもとる法を遵守する義務
 第54節 多数決ルールの位置づけ
 第55節 市民的不服従の定義
 第56節 良心的拒否の定義
 第57節 市民的不服従の正当化
 第58節 良心的拒否の正当化
 第59節 市民的不服従の役割
第三部 諸目的
第七章 合理性としての善さ
 第60節 善の理論の必要性
 第61節 いっそう単純な事例に即した善の定義
 第62節 意味に関する覚え書き
 第63節 人生計画に即した善の定義
 第64節 熟慮に基づく合理性
 第65節 アリストテレス的原理
 第66節 善の定義を人びとに適用する
 第67節 自尊、卓越および恥辱
 第68節 正と善との間のいくつかの相違点    
第八章 正義感覚
 第69節 秩序だった社会という概念
 第70節 権威の道徳性
 第71節 連合体の道徳性
 第72節 原理の道徳性
 第73節 道徳的情操の特徴
 第74節 道徳的態度と自然本性的態度との結びつき
 第75節 道徳心理学の原理
 第76節 相対的安定性の問題
 第77節 平等の基礎
第九章 正義の善
 第78節 自律と客観性
 第79節 社会連合という理念
 第80節 嫉みの問題
 第81節 嫉みと平等
 第82節 自由の優先権の諸根拠
 第83節 幸福と有力な人生目的
 第84節 選択の一方法としての快楽主義
 第85節 自我の統一性
 第86節 正義感覚の善
 第87節 正当化に関する結語
訳者あとがき-『正義論』の宇宙、探訪
対照表
事項索引
人名索引

【編集者からのコメント】
本書は、1971年に刊行された『正義論』(旧邦訳は同書のドイツ語訳にあたって作成された修正リストをもとに1979年、紀伊國屋書店から刊行、現在品切れ中)の改訂版(1999年刊)を新たに訳出したものです。三部九章87節の構成は初版と変わりませんが、初版刊行後ロールズに寄せられた批判、指摘をもとに「自由(の優先権)」「基本財」の説明などに訂正が施されました。改訂版翻訳にあたっては、多くの〔訳注〕をつけ読者の「読みやすさ」を考慮するとともに、原注の引用文献の翻訳版刊行情報を充実させ、また事項索引、人名索引を付し、ロールズ研究の便を図っています。

【著者紹介】
ジョン・ロールズ (John Rawls)1921-2002
アメリカの倫理学者。元ハーヴァード大学教授。
1950年プリンストン大学で「倫理の知の諸根拠に関する研究」で博士号取得。コーネル大学、マサチューセッツ工科大学(MIT)を経て、1962年ハーヴァード大学哲学部教授に就任、哲学科主任を経て、1991年より名誉教授。
1971年に『正義論』を発表。本書は大きな反響を呼び、ドイツ語、フランス語、スペイン語、コリア語、中国語など世界各国で翻訳された。
ほかの著書として、『政治的リベラリズム』(1993)、『万民の法』(1999)(中山竜一訳、岩波書店、2006)がある。
また1950年から60年代の主要論文を集めたものに『公正としての正義』(田中成明編訳、木鐸社、1979)、ハーヴァード大学での講義配布資料を補正した『ロールズ哲学史講義』(講義録2000)(ハーマン編、坂部恵監訳、
みすず書房、2005)、『公正としての正義 再説』(2001)(ケリー編、田中成明ほか訳、岩波書店、2004)がある。

【訳者紹介】
川本隆史
1951年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程(倫理学専攻)修了。博士 (文学)。
東京大学大学院教育学研究科教授。専攻は社会倫理学。
著書に『現代倫理学の冒険』(創文社、1995)、『ロールズ:正義の原理』(講談社、1997)、『共生から』(岩波書店、2008)、訳書(共訳)にアマルティア・セン『合理的な愚か者』(勁草書房、1989)、マイケル・ウォルツァー『解釈としての社会批判』(風行社、1996)ほかがある。

福間 聡
1973年生まれ。東北大学大学院文学研究科博士課程(哲学専攻)修了。博士(文学)。
東京大学大学院人文社会系研究科グローバルCOE 特任研究員。専攻は社会哲学。
著書に『ロールズのカント的構成主義 ――理由の倫理学』(勁草書房、2007、第55回日本倫理学会和辻賞受賞)、共著に『経済倫理のフロンティア』(ナカニシヤ出版、2007)ほかがある。

神島裕子
1971年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程(国際社会科学専攻)修了。博士(学術)。
中央大学商学部助教。専攻は政治哲学、国際倫理学。
著書(共著)に『ポスト・リベラリズムの対抗軸』(ナカニシヤ出版、2007)、訳書(共訳)にピーター・シンガー『グローバリゼーションの倫理学』(昭和堂、2005)ほかがある。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4314010746.html

1:55 午前  
Blogger yoji said...

30 Classical Utilitarianisms Impartiality and Benevolence
160
Institutions
169
CHAPTER IV EQUAL LIBERTY
171
32 The Concept of Liberty
176
33 Equal Liberty of Conscience
180
34 Toleration and the Common Interest
186
35 Toleration of the Intolerant
190
36 Political Justice and The Constitution
194
37 Limitations of Principle of Participation
200
38 The Rule of Law
206
39 The Priority of Liberty Defined
214
40 The Kantian Interpretation
221
CHAPTER V DISTRIBUTIVE SHARES
228
42 Some Remarks About Economic Systems
234
43 Background Institutions for Distributive Justice
242
44 The Problem of Justice Between Generations
251
45 Time Preference
259
54 The Status of Majority Rule
313
55 The Definition of Civil Disobedience
319
56 The Definition of Conscientious Refusal
323
57 The Justification of Civil Disobedience
326
58 The Justification of Conscientious Refusal
331
59 The Role of Civil Disobedience
335
Ends
345
CHAPTER VII GOODNESS AS RATIONALITY
347
61 The Definition of Good for Simpler Cases
350
62 A Note on Meaning
355
63 The Definitions of Good for Plans of Life
358
64 Deliberative Rationality
365
65 The Aristotelian Principle
372
66 The Definition of Good Applied to Persons
380
67 SelfRespect Excellences and Shame
386
68 Several Contrasts between the Right and the Good
392
CHAPTER VIII THE SENSE OF JUSTICE
397
70 THE Morality of Authority
405
71 The Morality of Association
409
73 Features of the Moral Sentiments
420
74 The Connection Between Moral and Natural Attitudes
425
75 The Principles of Moral Psychology
429
76 The Problem of Relative Stability
434
77 The Basis of Equality
441
CHAPTER IX THE GOOD OF JUSTICE
450
79 The Idea of Social Union
456
80 The Problem of Envy
464
81 Envy and Equality
468
82 The Grounds for the Priority of Liberty
474
83 Happiness and Dominant Ends
480
84 Hedonism as a Method of Choice
486
85 The Unity of the Self
491
86 The Good of the Sense of Justice
496
87 Concluding Remarks on Justification
506
Conversion Table
517
Index
521
著作権





書籍名 A Theory of Justice, Revised Edition
著者 John Rawls
版 2, 改訂, イラスト付き
出版社 Harvard University Press, 1999
ISBN 0674000781, 9780674000780
ページ数 538 ページ
   

2:05 午前  
Blogger yoji said...




Review: A Theory of Justice
ユーザー レビュー  - Yasmin - Goodreads
I tried reading this but it was too complex for me to follow his rhetoric. I am hoping to get back to this book later on - when I get more comfortable with complex theories. レビュー全文を読む
Review: A Theory of Justice
ユーザー レビュー  - Drury - Goodreads
I preferred Rawls's Law of Peoples. I think that the thought experiment he brings forth is intriguing, but what happens if after making our decision from the original position we do not like the outcome we have chosen? レビュー全文を読む


関連書籍


目次

CHAPTER I JUSTICE AS FAIRNESS
3
2 The Subject of Justice
6
3 The Main Idea of the Theory of Justice
10
4 The Original Position and Justifications
15
5 Classical Utilitarianism
19
6 Some Related Contrasts
24
7 Intuitionism
30
8 The Priority Problem
36
46 Further Cases of Priority
263
47 The Precepts of Justice
267
48 Legitimate Expectations and Moral Desert
273
49 Comparison with Mixed Conceptions
277
50 The Principle of Perfection
285
CHAPTER VI DUTY AND OBLIGATION
293
52 The Arguments for the Principles of Fairness
301
53 The Duty to Comply with an Unjust Law
308

9 Some Remarks Moral Theory
40
CHAPTER II THE PRINCIPLES OF JUSTICE
47
11 Two Principles of Justice
52
12 Interpretations of the Second Principle
57
13 Democratic Equality and The Difference Principle
65
14 Fair Equality of Opportunity and Pure Procedural Justice
73
15 Primary Social Goods As the Basis the of Expectations
78
16 Relevant Social Positions
81
17 The Tendency to Equality
86
The Principle of Fairness
93
The Natural Duties
98
CHAPTER III THE ORIGINAL POSITION
102
21 The Presentation of Alternatives
105
22 The Circumstances of Justice
109
23 The Formal Constraints of the Concept of Right
112
24 The Veil of Ignorance
118
25 The Rationality of the Parties
123
26 The Reasoning Leading to the Two Principles of Justice
130
27 The Reasoning Leading to the Principle of Average Utility
139
28 Some Difficulties with the Average Principle
144
29 Some Main Grounds For the Two Principles of Justice
153

2:06 午前  
Blogger yoji said...

historical conditions and the traditions, institutions, and social forces of each country.7 As a political conception, then, justice, as fairness includes no natural right of private property in the means of production (although it does include a right to personal property as necessary for citizens’ independence and integrity), nor a natural right to worker-owned and-managed firms. It offers instead a conception of justice in the light of which, given the particular circumstances of a country, those questions can be reasonably decided.

John Rawls

November 1990 7.

See the last two paragraphs of §42, Chapter V.

2:40 午前  
Blogger yoji said...



/////以下、ロールズ、『正義論』フランス語版序文より/////////

 「この場合、はじめから少数者にではなく市民全員の手に生産手段が委ねられ、それによって市民が社会生活のためにじゅうぶんな協力体制を組めるように、諸制度を整備しなければならなくなる。強調されるべきは、ある期間を通じて資本および資源の所有が偏りなく分散され、しかもそうした所有の分散が、相続と譲渡に関する法律、機会の公正な均等を求める法律(それに基づいて教育や育成のための諸方策が認可される)、さらに政治的自由の公正な価値を守るための諸制度に関する法律によって、実現されるということである。」

                 川本隆史・米谷園江訳「みすず」No.385より(1993.4)

                 原典、ロールズ『正義論』フランス語版(1987)

2:42 午前  
Blogger yoji said...

http://books.google.co.jp/books?id=hAgoDtjNM94C&pg=PA415&hl=ja&source=gbs_toc_r&cad=3#v=onepage&q&f=false


John Rawls: Collected Papers - John Rawls - Google ブックス

p420

2:54 午前  
Blogger yoji said...

http://boards.straightdope.com/sdmb/showthread.php?t=619370


By contrast, in a property-owning democracy the aim is to carry out
the idea of society as a fair system of cooperation over time among
citizens as free and equal persons. Thus, basic institutions must from the
outset put in the hands of citizens generally, and not only of a few, the
productive means to be fully cooperating members of a society. The
emphasis falls on the steady dispersal over time of the ownership of
capital and resources by the laws of inheritance and bequest, on fair
equality of opportunity secured by provisions for education and training,
and the like, as well as on institutions that support the fair value of the
political liberties. To see the full force of the difference principle it should
be taken in the context of property-owning democracy (or of a liberal
socialist regime) and not a welfare state: it is a principle of reciprocity, or
mutuality, for society seen as a fair system of cooperation among free and
equal citizens from one generation to the next.

3:12 午前  
Blogger yoji said...



/////以下、ロールズ、『正義論』フランス語版序文より/////////

 「この場合、はじめから少数者にではなく市民全員の手に生産手段が委ねられ、それによって市民が社会生活のためにじゅうぶんな協力体制を組めるように、諸制度を整備しなければならなくなる。強調されるべきは、ある期間を通じて資本および資源の所有が偏りなく分散され、しかもそうした所有の分散が、相続と譲渡に関する法律、機会の公正な均等を求める法律(それに基づいて教育や育成のための諸方策が認可される)、さらに政治的自由の公正な価値を守るための諸制度に関する法律によって、実現されるということである。」

                 川本隆史・米谷園江訳「みすず」No.385より(1993.4)

                 原典、ロールズ『正義論』フランス語版(1987)


2:42 午前
yoji さんは書きました...
http://books.google.co.jp/books?id=hAgoDtjNM94C&pg=PA415&hl=ja&source=gbs_toc_r&cad=3#v=onepage&q&f=false


John Rawls: Collected Papers - John Rawls - Google ブックス

p420

2:54 午前
yoji さんは書きました...
http://boards.straightdope.com/sdmb/showthread.php?t=619370



Thus, basic institutions must from the
outset put in the hands of citizens generally, and not only of a few, the
productive means to be fully cooperating members of a society. The
emphasis falls on the steady dispersal over time of the ownership of
capital and resources by the laws of inheritance and bequest, on fair
equality of opportunity secured by provisions for education and training,
and the like, as well as on institutions that support the fair value of the
political liberties. To see the full force of the difference principle it should
be taken in the context of property-owning democracy (or of a liberal
socialist regime) and not a welfare state: it is a principle of reciprocity, or
mutuality, for society seen as a fair system of cooperation among free and
equal citizens from one generation to the next.

3:12 午前

3:14 午前  
Blogger yoji said...



/////以下、ロールズ、『正義論』フランス語版序文より/////////

 「この場合、はじめから少数者にではなく市民全員の手に生産手段が委ねられ、それによって市民が社会生活のためにじゅうぶんな協力体制を組めるように、諸制度を整備しなければならなくなる。強調されるべきは、ある期間を通じて資本および資源の所有が偏りなく分散され、しかもそうした所有の分散が、相続と譲渡に関する法律、機会の公正な均等を求める法律(それに基づいて教育や育成のための諸方策が認可される)、さらに政治的自由の公正な価値を守るための諸制度に関する法律によって、実現されるということである。」

                 川本隆史・米谷園江訳「みすず」No.385より(1993.4)

                 原典、ロールズ『正義論』フランス語版(1987)


http://books.google.co.jp/books?id=hAgoDtjNM94C&pg=PA415&hl=ja&source=gbs_toc_r&cad=3#v=onepage&q&f=false


John Rawls: Collected Papers - John Rawls - Google ブックス

p420





Thus, basic institutions must from the
outset put in the hands of citizens generally, and not only of a few, the
productive means to be fully cooperating members of a society. The
emphasis falls on the steady dispersal over time of the ownership of
capital and resources by the laws of inheritance and bequest, on fair
equality of opportunity secured by provisions for education and training,
and the like, as well as on institutions that support the fair value of the
political liberties.

3:16 午前  
Blogger yoji said...

インドが覇権国家になるとしたら
ガンジーの倫理によってだろう
ウェーバーならそう分析するはず

10:05 午後  
Blogger yoji said...

ガンジーは国民会議派を協会(サンガ)に移行させようとしていたのだ。


こうしたガンジーの案はその後、必ずしも現実化されたわけではないが、この案から小さな単位を大事にするガンジーの理念はよく伝わる。

(興味深いのは活動家は村民と「個人的な接触を持つこと」=「顔見知りになること」が求められていることだ。)


「わたし自身の体験から集約したいくつかの規約」

(一) 隊員はいかなる武器も所持してはならない。
(二) 平和部隊の隊員は容易に見分けがつくよう配慮すること。
(三) 全隊員が応急処置にあたれるよう、包帯・はさみ・針と糸・外科用ナイフ等を所持すること。
(四) 隊員は負傷者の運搬や移動の方法を知っておくこと。
(五) 隊員は、消火の方法ならびに、火傷を負わずに火事場に入る方法、また、荷物のあるなしに関係なく救出作業のために高い塀をよじ登り、無事に降りる方法を知っておくこと。
(六) 隊員は受け持ち地区のすべての住民と顔見知りになること。このこと自体、一つの奉仕である。
(七) 隊員はたえず心に神の御名(ラーマヤーナ)をとなえ、信仰をいだく多の人びとにもそうするよう勧めること。

一九四六年四月二十六日 ニューデリーにて (「非暴力の義勇隊」『ハリジャン(神の子)』一九四六年五月五日号)
(『非暴力の精神と対話』73−4頁)

3:14 午前  
Blogger yoji said...

あまり知られていないものとして、ガンジーが死の前日に提出した新たなインドの組織案がある。
ガンジーは国民会議派を協会(サンガ)に移行させようとしていたのだ。
こうしたガンジーの案はその後、必ずしも現実化されたわけではないが、この案から小さな単位を大事にするガンジーの理念はよく伝わる。
(興味深いのは活動家は村民と「個人的な接触を持つこと」=「顔見知りになること」が求められていることだ。)

参考:
「わたし自身の体験から集約したいくつかの規約」

(一) 隊員はいかなる武器も所持してはならない。
(二) 平和部隊の隊員は容易に見分けがつくよう配慮すること。
(三) 全隊員が応急処置にあたれるよう、包帯・はさみ・針と糸・外科用ナイフ等を所持すること。
(四) 隊員は負傷者の運搬や移動の方法を知っておくこと。
(五) 隊員は、消火の方法ならびに、火傷を負わずに火事場に入る方法、また、荷物のあるなしに関係なく救出作業のために高い塀をよじ登り、無事に降りる方法を知っておくこと。
(六) 隊員は受け持ち地区のすべての住民と顔見知りになること。このこと自体、一つの奉仕である。
(七) 隊員はたえず心に神の御名(ラーマヤーナ)をとなえ、信仰をいだく多の人びとにもそうするよう勧めること。

一九四六年四月二十六日 ニューデリーにて (「非暴力の義勇隊」『ハリジャン(神の子)』一九四六年五月五日号)
(『非暴力の精神と対話』73−4頁)

3:17 午前  
Blogger yoji said...

あまり知られていないものとして、ガンジーが死の前日に提出した新たなインドの組織案がある。
ガンジーは国民会議派を協会(サンガ)に移行させようとしていたのだ。
そうしたガンジーの案はその後、必ずしも現実化されたわけではないが、この案から小さな単位を大事にするガンジーの理念はよく伝わる。
(興味深いのは活動家は村民と「個人的な接触を持つこと」=「顔見知りになること」が求められていることだ。)

参考:
「わたし自身の体験から集約したいくつかの規約」

(一) 隊員はいかなる武器も所持してはならない。
(二) 平和部隊の隊員は容易に見分けがつくよう配慮すること。
(三) 全隊員が応急処置にあたれるよう、包帯・はさみ・針と糸・外科用ナイフ等を所持すること。
(四) 隊員は負傷者の運搬や移動の方法を知っておくこと。
(五) 隊員は、消火の方法ならびに、火傷を負わずに火事場に入る方法、また、荷物のあるなしに関係なく救出作業のために高い塀をよじ登り、無事に降りる方法を知っておくこと。
(六) 隊員は受け持ち地区のすべての住民と顔見知りになること。このこと自体、一つの奉仕である。
(七) 隊員はたえず心に神の御名(ラーマヤーナ)をとなえ、信仰をいだく多の人びとにもそうするよう勧めること。

一九四六年四月二十六日 ニューデリーにて (「非暴力の義勇隊」『ハリジャン(神の子)』一九四六年五月五日号)
(『非暴力の精神と対話』73−4頁)

3:17 午前  
Blogger yoji said...

あまり知られていないものとして、ガンジーが死の前日に提出した新たなインドの組織案がある。
ガンジーは国民会議派を協会(サンガ)に移行させようとしていたのだ。
それは具体的には70万ある農村に成人男女5人ずつのパンチャーヤト(語意は五人会議というインド農村の昔ながらのグループ)を作り、さらに二つのパン チャーヤトは指導者を一人互選する。そして選ばれた50人の指導者からさらに指導者が選ばれ、200のパンチャーヤトは100づつの平行するグループとな り、このようなグループがインド全土をおおうことになる。各指導者たちはそれぞれ手紡ぎ綿布着用義務をもち、名簿管理などを行う。さらに全体としての協会 は、手紡ぎ綿布、農業、教育、人権、動物愛護といった5つの支部を持つ、というものだ(みすず書房『わたしの非暴力2』)。

こうしたガンジーの案はその後、必ずしも現実化されたわけではないが、この案から小さな単位を大事にするガンジーの理念はよく伝わる。

(それに加えて興味深いのは活動家は村民と「個人的な接触を持つこと」=「顔見知りになること」が求められていることだ。)

「わたし自身の体験から集約したいくつかの規約」

(一) 隊員はいかなる武器も所持してはならない。
(二) 平和部隊の隊員は容易に見分けがつくよう配慮すること。
(三) 全隊員が応急処置にあたれるよう、包帯・はさみ・針と糸・外科用ナイフ等を所持すること。
(四) 隊員は負傷者の運搬や移動の方法を知っておくこと。
(五) 隊員は、消火の方法ならびに、火傷を負わずに火事場に入る方法、また、荷物のあるなしに関係なく救出作業のために高い塀をよじ登り、無事に降りる方法を知っておくこと。
(六) 隊員は受け持ち地区のすべての住民と顔見知りになること。このこと自体、一つの奉仕である。
(七) 隊員はたえず心に神の御名(ラーマヤーナ)をとなえ、信仰をいだく多の人びとにもそうするよう勧めること。

一九四六年四月二十六日 ニューデリーにて (「非暴力の義勇隊」『ハリジャン(神の子)』一九四六年五月五日号)
(『非暴力の精神と対話』73−4頁)


3:21 午前  
Blogger yoji said...

あまり知られていないものとして、ガンジーが死の前日に提出した新たなインドの組織案がある。
ガンジーは国民会議派を協会(サンガ)に移行させようとしていたのだ。
それは具体的には70万ある農村に成人男女5人ずつのパンチャーヤト(語意は五人会議というインド
農村の昔ながらのグループ)を作り、さらに二つのパン チャーヤトは指導者を一人互選する。そして選
ばれた50人の指導者からさらに指導者が選ばれ、200のパンチャーヤトは100づつの平行するグ
ループとな り、このようなグループがインド全土をおおうことになる。各指導者たちはそれぞれ手紡ぎ
綿布着用義務をもち、名簿管理などを行う。さらに全体としての協会 は、手紡ぎ綿布、農業、教育、人
権、動物愛護といった5つの支部を持つ、というものだ(みすず書房『わたしの非暴力2』)。

こうしたガンジーの案はその後、必ずしも現実化されたわけではないが、この案から小さな単位を大事
にするガンジーの理念はよく伝わる。

(それに加えて興味深いのは活動家は村民と「個人的な接触を持つこと」=「顔見知りになること」が
求められていることだ。)

「わたし自身の体験から集約したいくつかの規約」

(一) 隊員はいかなる武器も所持してはならない。
(二) 平和部隊の隊員は容易に見分けがつくよう配慮すること。
(三) 全隊員が応急処置にあたれるよう、包帯・はさみ・針と糸・外科用ナイフ等を所持すること。
(四) 隊員は負傷者の運搬や移動の方法を知っておくこと。
(五) 隊員は、消火の方法ならびに、火傷を負わずに火事場に入る方法、また、荷物のあるなしに関係
なく救出作業のために高い塀をよじ登り、無事に降りる方法を知っておくこと。
(六) 隊員は受け持ち地区のすべての住民と顔見知りになること。このこと自体、一つの奉仕である。
(七) 隊員はたえず心に神の御名(ラーマヤーナ)をとなえ、信仰をいだく多の人びとにもそうする
よう勧めること。

一九四六年四月二十六日 ニューデリーにて (「非暴力の義勇隊」『ハリジャン(神の子)』一九四六年五月五日号)
(『非暴力の精神と対話』73−4頁)


3:22 午前  
Blogger yoji said...

あまり知られていないものとして、ガンジーが死の前日に提出した新たなインドの組織案がある。
ガンジーは国民会議派を協会(サンガ)に移行させようとしていたのだ。
それは具体的には70万ある農村に成人男女5人ずつのパンチャーヤト(語意は五人会議というインド
農村の昔ながらのグループ)を作り、さらに二つのパン チャーヤトは指導者を一人互選する。そして選
ばれた50人の指導者からさらに指導者が選ばれ、200のパンチャーヤトは100づつの平行するグ
ループとな り、このようなグループがインド全土をおおうことになる。各指導者たちはそれぞれ手紡ぎ
綿布着用義務をもち、名簿管理などを行う。さらに全体としての協会 は、手紡ぎ綿布、農業、教育、人
権、動物愛護といった5つの支部を持つ、というものだ(みすず書房『わたしの非暴力2』)。

こうしたガンジーの案はその後、必ずしも現実化されたわけではないが、この案から小さな単位を大事
にするガンジーの理念はよく伝わる。

(それに加えて興味深いのは活動家は村民と「個人的な接触を持つこと」=「顔見知りになること」が
求められていることだ。)

「わたし自身の体験から集約したいくつかの規約」

(一) 隊員はいかなる武器も所持してはならない。
(二) 平和部隊の隊員は容易に見分けがつくよう配慮すること。
(三) 全隊員が応急処置にあたれるよう、包帯・はさみ・針と糸・外科用ナイフ等を所持すること。
(四) 隊員は負傷者の運搬や移動の方法を知っておくこと。
(五) 隊員は、消火の方法ならびに、火傷を負わずに火事場に入る方法、また、荷物のあるなしに関係
なく救出作業のために高い塀をよじ登り、無事に降りる方法を知っておくこと。
(六) 隊員は受け持ち地区のすべての住民と顔見知りになること。このこと自体、一つの奉仕である。
(七) 隊員はたえず心に神の御名(ラーマヤーナ)をとなえ、信仰をいだく多の人びとにもそうする
よう勧めること。

一九四六年四月二十六日 ニューデリーにて
 (「非暴力の義勇隊」『ハリジャン(神の子)』一九四六年五月五日号)
(『非暴力の精神と対話』73−4頁)


3:23 午前  
Blogger yoji said...


http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/16b54e12b081dd4e1c576acc327d1994
 ガンディーは自伝で子供の頃はキリスト教は嫌いだったと書いている。多感な子供時代、ヒンドゥー教の悪口ばかり言っていた西欧人宣教師を見れば、抜きがたい嫌悪感を覚えるのは当然だろう。後年“マハートマー”(偉大なる魂)の尊称を受けてもガンディーは、「キリストは好きだがキリスト教徒は好きではない。彼らはキリスト的ではないからだ」と語っていた。『神道』(青土社)のアメリカ人著者P.R.ハーツは戦後日本がキリスト教化しなかったのは、キリスト教徒が原爆を落としたのを忘れていないからだ、と見ている。
 簡単な聖書の教えにこのようなものがある。「あなたはわたしの神、主である。あなたにはわたしの他に、他の神々があってはならない」(出エジプト記20章2-3節)。これこそがキリスト教の本質であり、他の神々を全く認めぬ非寛容な一神教の教義が見事に表れている。

9:42 午後  
Blogger yoji said...

ヒンズー教→ショーペンハウアー→トルストイ→ガンディー

ガンディーは、結果的にヒンズー教からの影響を再確認したことになる

9:19 午後  
Blogger yoji said...

ヒンドゥー教→ショーペンハウアー→トルストイ→ガンディー

ガンディーは、結果的にヒンドゥー教からの影響を再確認したことになる

9:21 午後  
Blogger yoji said...

チャップリン自伝に機械に関してのガンジーとの興味深い会話が紹介されている

9:27 午後  
Blogger yoji said...

発明家の藤田氏がこのガンジーの教えを実践している

アフリカのジュース工場
モンゴルの馬力発電他

9:31 午後  
Blogger yoji said...

経済学の哲学 19世紀経済思想とラスキン/伊藤邦武/実用書・教養 ...
www.bookpass.auone.jp/pack/detail/?pid...
産業革命が隆盛を誇るロンドンで、哲学者ラスキンが環境と弱者を犠牲にする経済学に 怒りを感じ、新しい経済学の枠組みを構想 ... ラスキンの思想は、その後の1906年 イギリス労働党結成に大きな影響を与え、またトルストイやガンジーなどにも影響を与え た。
653伊藤邦武著『経済学の哲学――19世紀経済思想とラスキン ...
d.hatena.ne.jp/akamac/20111030/1319987083
人間と環境との共存という今日的課題を19世紀に提起した著述家がいた。ジョン・ ラスキン(1819-1900)である。文化経済学の系譜では芸術経済論として「固有価値論」 を提起し,同時にそれを享受しうる能力の意味を問い,学習と教育を強調 ...
[「経済学の哲学~19世紀経済思想とラスキン~」] by いっちょむブログ
tomoki86.blog39.fc2.com/blog-entry-88.html
経済学の哲学~19世紀経済思想とラスキン~」(伊藤邦武、中公新書、2011年9月25日 発行) ◇本書の目的 経済(エコノミー)と環境保護(エコロジー)。 分裂し、対立するかの ような両者が折り合う思想とは可能なのか。 このきわめて現代的な ...
伊藤邦武『経済学の哲学』中公新書 Kunitake Ito, Philosophy of ...
nobufujioka.blogspot.com/.../kunitake-ito-philosophy-of-econ...
ラスキンはさらに、当時の経済学が持っていた、経済的な利益の追求が社会全体の 目標である、という根本的な考え方に異論を唱え ... そうしたラスキンの思想は、 プルーストやガンジーに大きな影響を与えた、というエピソードも紹介している。

以下
伊藤別論考より

(ついでにいえば、『この最後の者にも』をベンガル語に翻訳し、これこそが「自分の生涯を決定した唯一の書である」と『自叙伝』で述べたのは、ガンジーである(6))。 ホブソンはラスキンの経済批判を次のように特徴づけている。 彼の時代の商業主義的経済への攻撃は、純然たる科学的批判であった。彼は経済というものが、貨幣を生み出す活動と動機とを、人間の本性と生とを形作っている他の一切のものから分離可能であり、独立の科学や技術として構築できると想定しているゆえに、告発されるべきだと考えた。要するに彼は、「経済的人間(economic man)」の構築という発想を誤りとしたのであるが、この発想によれば、人は純粋に利己的な利潤追求と労働分担という動機のみによって動かされているのであり、その活動がこれらの要素に合致しない面は、「摩擦」や「例外」として処理されるのである。この経済思想が関わりをもつのは、純粋に商業的に交換可能な器具類のみであるが、そうした事物でさえ、合理的には排除できないような、他の人間のもろもろの力の作用を実際には受けているのであり、それらの力が、狭い意味での経済的動機の作用を修正したり、場合によっては逆転するようにと、有機的に協働し合っているのである。ラスキンは、最良の作品とは、その働きをマーケットで交換可能な商品であるとして、彼の「魂」や人格を無視できると見なすような、家の中の奴隷によっては作り出しえないものであることが、経験によって示されていると主張するが、これは当時の経済学にたいする人道主義的な批判であると同時に、科学的理論にもとづいた批判でもあった。(7)さて、ラスキンのアナクロニズムという幻視的思考のスタ

7:57 午後  
Blogger yoji said...

この最後の者にも
h-kishi.sakura.ne.jp/s-8.htm
その中聖書の言葉がより切実に聞こえてきたという関田さんに、「マタイによる福音書」で 、イエスが、神の国のありようを示した「 ... そして「この最後の者にも、みんなと同じように 支払ってやりたいのだ」というのが、この雇い主の最後の言葉であり、この聖書の箇所 ...
マタイ 20 | オンライン聖書 | 「新世界訳」
www.jw.org/ja/出版物/聖書/nwt/各書/マタイ/20/
わたしはこの最後の者にもあなたと同じように与えたいのだ+。 わたしが自分のもので 自分の望むことを行なってもよいではないか。それとも,わたしが善良なので+,あなた の目はよこしまになるのか*+』。 このように,最後の者が最初に,最初の者が最後になる で ...
最後の者にも(マタイ20:1-16) - ふくいんのなみ
www.jesus-web.org/radioprg07/prg_seisho_20070208.htm
山下 正雄(ラジオ牧師). メッセージ: 最後の者にも(マタイ20:1-16). ご機嫌いかがです か。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に 聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革 ...

9:25 午後  
Blogger yoji said...


http://www.jesus-web.org/radioprg07/prg_seisho_20070208.htm
メッセージ: 最後の者にも(マタイ20:1-16)

 何かものを読むときに、自分をどういう立場において読むのかということで、書かれていることの受け止め方は随分と違ってきてしまうものです。きょうこれから取り上げようとするイエス・キリストの譬え話は、読み手によって随分と受ける印象が異なる話です。
 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 20章1節から16節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、1日につき1デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、9時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、12時ごろと3時ごろにまた出て行き、同じようにした。5時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで1日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、5時ごろに雇われた人たちが来て、1デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも1デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、1時間しか働きませんでした。まる1日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその1人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

9:26 午後  
Blogger yoji said...

ETV特集「武器ではなく命の水を」(2016年9月10日、Eテレ)

中村哲 (医師) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/中村哲_(医師)
中村 哲(なかむら てつ、1946年9月15日 - )は、日本の医師。 ペシャワール会現地代表、ピース・ジャパン・メディカル・サービス(PMS)総院長。

目次 [非表示]
1 経歴
2 著書
2.1 共編著
3 出演
4 中村哲を題材とした作品
5 関連項目
6 外部リンク
経歴[ソースを編集]
福岡県福岡市出身。西南学院中学校、福岡県立福岡高等学校、九州大学医学部卒業。国内病院勤務ののち、1984年、パキスタン北西辺境州の州都ペシャワールに赴任。以来、20年以上にわたってハンセン病を中心とする医療活動に従事する。登山と昆虫採集が趣味で、1978年には7000m峰ティリチミール登山隊に帯同医師として参加した。

パキスタン・アフガニスタン地域で長く活動してきたが、パキスタン国内では政府の圧力で活動の継続が困難になったとして、以後はアフガニスタンに現地拠点を移して活動を続ける意思を示している。

小説家の火野葦平は母方の叔父である(妹が中村の母)。外祖父で若松において港湾荷役業を営んでいた玉井金五郎が映画『花と竜』のモデルとなったことで、周囲から玉井家が暴力団関係者と誤解され、中村も迷惑を被ったとしている。また、福岡高校の同期に原尞がいる。

自身はキリスト教プロテスタント系バプテスト派のクリスチャンであるが、現地の人々の信仰や価値観に最大限の敬意を表しながら活動を続けている。

2003年にマグサイサイ賞を受賞した。2004年には、皇居に招かれ今上天皇・皇后と紀宮清子内親王へアフガニスタンの現況報告を行った。同年、第14回イーハトーブ賞受賞。

2008年には参議院外交防衛委員会で、参考人としてアフガニスタン情勢を語っている。

2010年、水があれば多くの病気と帰還難民問題を解決できるとして建設していた、ガンベリー砂漠まで総延長25㎞を超える用水路が完成する。約10万人の農民が暮らしていける基盤を作る。

2013年、第24回福岡アジア文化賞大賞、第61回菊池寛賞を受賞した。2014年、『天、共に在り―アフガニスタン三十年の闘い』で、第1回城山三郎賞、第4回梅棹忠夫・山と探検文学賞を受賞した。



2016年、現地人が自分で用水路を作れるように、学校を準備中。住民の要望によりモスクやマドラサを建設。旭日双光章受章。

著書[ソースを編集]
『ペシャワールにて 癩そしてアフガン難民』石風社 1989年
『ペシャワールからの報告 現地医療現場で考える』河合ブックレット 1990年
『アフガニスタンの診療所から』筑摩書房 ちくまプリマーブックス 1993年 のち文庫 
『ダラエ・ヌールへの道 アフガン難民とともに』石風社 1993年
『医は国境を越えて』石風社 1999年
『医者井戸を掘る―アフガン旱魃との闘い』石風社 2001年
『ほんとうのアフガニスタン―18年間“闘う平和主義”をつらぬいてきた医師の現場報告』光文社 2002年
『医者よ、信念はいらないまず命を救え! アフガニスタンで「井戸を掘る」医者中村哲』羊土社 2003年
『辺境で診る辺境から見る』石風社 2003年
『アフガニスタンで考える―国際貢献と憲法九条』岩波ブックレット 2006年
『医者、用水路を拓く―アフガンの大地から世界の虚構に挑む』石風社 2007年
『天、共に在り―アフガニスタン三十年の闘い』NHK出版 2013年
共編著[ソースを編集]
『空爆と「復興」―アフガン最前線報告』ペシャワール会共編著、石風社 2004年
『丸腰のボランティア―すべて現場から学んだ』ペシャワール会日本人ワーカー著、編纂 石風社 2006年
『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る アフガンとの約束』澤地久枝聞き手 岩波書店 2010年
出演[ソースを編集]
ETV特集「武器ではなく命の水を」(2016年9月10日、Eテレ)
中村哲を題材とした作品[ソースを編集]
三枝義浩「アフガニスタンで起こったこと 〜不屈の医師 中村哲物語〜」前、後編 講談社『週刊少年マガジン』2003年24号、25号
関連項目[ソースを編集]
川原尚行 : スーダンで同様の海外支援活動を行っている医師。九州大学医学部の後輩に当たる。
伊藤和也 : アフガニスタン日本人拉致事件で拉致・殺害されたペシャワール会職員。
外部リンク[ソースを編集]
ペシャワール会 中村哲が現地代表となり、パキスタンとアフガニスタンで医療、水源確保(灌漑用井戸掘削・水路建設)、農業支援の活動を行っている。
参議院会議録情報 第170回国会 外交防衛委員会 第4号

8:26 午後  
Blogger yoji said...

CinemaScape/Comment: モダン・タイムス
http://cinema.intercritique.com/comment.cgi?u=3655&mid=724
この作品を制作する以前、チャップリンはガンジーと会う機会があり、機械文明を批判するガンジーに、「機械は便利な物ではないですか?」と尋ねた。ガンジーの答えは「便利さの追求は、幸福の追求とは別ものです」。その後、チャップリンはフォードの自動車工場を訪ね、そこで労働者が機械の部品のように働かされ、身心を病んでいる事を知る。そうした経緯があって生まれたのがこの、文明批判的なコメディ。

工場での流れ作業は、経営者の一方的な効率追求によってスピードアップを求められ、それに従って、労働者の機械的な単純作業も、人間の限界を超える速度と正確さを強いられる。チャップリンがコミカルに演じているように、体が痒くなったり、傍に居る人に話しかけたくなる、といった、人間のごく自然な欲求を、一瞬たりとも許さない機械は、単純作業の反復によって、人間の身心を、機械的な条件反射の奴隷にしていく。

食事マシーンに翻弄されるチャップリンや、チャップリンに食事を口に運んでもらう機械技師の姿から窺えるように、手はネジを締める為にのみ、頭は食事をする為にのみ存在するかのような労働者たちは、家畜さながらの扱いを受けている。それは映画の冒頭での、家畜の群れと通勤ラッシュが重なる場面に象徴的に表されているし、映画のタイトルで、時計が大写しにされているのも、機械の歯車による絶対的な支配体制を示している。

遂にチャップリンが大暴れする場面では、彼が工場の作業で強いられていた不自然な動作がそのまま、暴力的なアクションとして展開される。チャップリン自身に機械の横暴さが取り憑いたかのようだ。多分こうした点が、精神分析医のフェリックス・ガタリがチャップリンについて言っている、「純粋に無意味な反復効果」によって世界を「反転」してみせるユーモア、というものなのだろう。 (フェリックス・ガタリインタビュー~音の横断~ http://www9.big.or.jp/~np/tokijiku/tokijiku07.html)

6:17 午前  
Blogger yoji said...

チャップリンについて<チャップリンと映画<ガンジーとの対談
http://www.geocities.jp/guchism_freebird/movies/gandhi.html

2-3.ガンジーとの会談 1931年、彼はインドの独立運動家・マハトマ・ガンジーとの会談で以下のように発言している。「私は自由を求めるインド、そしてまた、その為に闘っているインドに対して、心からの共鳴を感じていますよ。しかし、あなたのあの機械嫌いというのには、どうもちょっとこだわりますね。」軽く頷くガンジーに、チャーリーはさらにこう付け加えた。「要するにですよ、機械というものが、世のため人のためということで使われさえすれば、これは人間を奴隷の状態から解放し、労働時間を短縮し、それによって、知性の向上、生活の喜びよいうものを増進するのに役立つことは決まっているのですからね。」彼は単なる機械破壊論者ではなく、人間の生活を豊かにするはずの機械が、人間を奴隷化に導いている資本主義を敵視し、指摘していたのだ。
HOME

6:17 午前  
Blogger yoji said...

チャップリン自伝下310頁

10:00 午後  
Blogger yoji said...

伝チヤップリン自伝『街の灯』の封切の日,私のために乾杯の音頭をとるウィンストン・チャーチル(ロンドン)の機械嫌いというのには、どうもちょっとこだわりますね」
 彼は軽く笑ってうなずいた。わたしは、なおもあとをつづける。「要するにですよ、機械というものが、世のため、人のためということで使われさえすれば、これは人間を奴隷の状態から解放し、労働時間を短縮し、それによって、知性の向上、生活のよろこびというものを、増進するのに役立つことはきまってるんですからね」「おっしゃることはよくわかります」彼は静かに言った。「しかしですよ、インドでは、それらの目的を達成する前に、まずイギリスの支配から解放されなければならないのです。現に過去において、わたしたちは機械のおかげでイギリスの奴隷になってしまったのです。したがって、もしその隷属状態から脱却しようと思えば、唯一の途は、まず機械で作られる一切の商品をボイコットすること、それ以外にはないのです。わたしたちインド人が、自分の糸は自分で紡ぎ、自分の布は自分で織るということ、それをすべての国民の愛国的義務であると規定したのも、実はそのためなのです。これがイギリスのような強大国家に対する、わたしたちの攻撃法なのです――もちろん、ほかにもまだ理由はいろいろありますがね。たとえばインドとイギリスとでは、風土がちがいます。習慣や欲望もちがいます。イギリスでは寒いために骨の折れる勤労や複雑な経済が必要でしょう。あなた方にはナイフやフォークなど食器を作る工業が必要でしょうが、わたしたちは指で食べます。そうしたことが、そのままいろんな相違になって現われてくるわけです」
 なるほど、よくわかつた。自由のために闘っているインドの闘争、そのいわば用兵作戦における立派な実物教訓を示されたようなものだった。そしてそれは、逆説めいて聞えるかもしれぬが、鉄のような実行意志をもった、きわめて現実的、かつ男性的な理想家によって鼓舞されているのだった。彼はまた、こんなことも言った。最高の独立とは、 一切の不要なものをふりすてることであり、また暴力は、必ず結局において自滅するというのだった。
 報道陣が引きあげると、彼は、しばらく残って彼らの礼拝を見て行かないかと言った。まずガンジーが床にあぐらをかいて坐ると、五人のインド人たちも、彼を囲んで丸くなって坐る。ロンドン貧民街のどまんなか、六人の人間が小さな部屋の床に

3:26 午前  
Blogger yoji said...

伝チヤップリン自伝





である。そのガンジーに会ってみないかと言われたので、もちろん、わたしは喜んで応じた。会ったのは、イースト・インディア・ドツク・ロードを少しはずれた貧民街のひどくみすぼらしい家でだった。通りには人があふれ、記者とカメラマンとが、 一、三階ともぎっしりヽハ」ボいになっていた。会見は通りに面した三階、十二フィート平方ほどの部屋で行われた。大聖者はまだ来ていなかったので、わたしは待ちながら、何を話したものか、いろいろと考えてみた。投獄、ハンガー・ストライキ、そしてインドの自由のために闘ってきた、等々といったことについては、すでに聞いていたし、また機械文明反対論者であることも、漠然とながら知っていた。やっと彼が着いた。腰布をたくし上げながら、タクシーから降りてくると、たちまちまわりからは、万歳、万歳の声が湧き上った。このごみごみした狭い貧民街で、いま一人の外国人が群衆の歓呼を浴びながら、わびしい小さな家に入って行く。なんともそれは妙な光景だった。彼は三階にあがると、すぐに窓から顔を出乳言通りの群衆に手をふったのである。ソファに並んで坐ると、たちまちフラッシュの一斉射撃を受けた。わたしは彼の右手に坐わっ教いだ蒔ない相い一″%腱獄「削堀現れい』靱凱わ静なけ餞舞赫砂漱械¨嗅わには蹴に精い婦人が坐っていて、しきりになにかくどくどと話しかけてくる。だが、わたしのほうはガンジーと話す話題のことばかり夢中になって考えているのだから、そんな話など一言も耳にははいっていない。ただフンフンと肯ぐかけだつた。さてヽいよいよ口火を切らなくてはならないのだが、といって、わたしの最近作、どうごらんになりましたか? などと訊きだすのも、相手がガンジーとあっては、変なものにきまっている、――第一、彼が映画など見るかどうか、そのほうがまず問題だった。だが、そのうちに一人のインド婦人が、突然高飛車に例の若い婦人のおしゃべりを封じてしまった。「あなた、いいかげんにおしゃべりおやめになったらどう? チャップリンさんとマハトマとのお話を伺いましょうよ」
 ぎっしりつまった部屋の中が、 一瞬シーンとなった。仮面のようなガンジーの顔が、わたしの言葉を待って緊張した。おそらく同時に、全インド人の緊張ででもあったのだろう。わたしは、まずせきばらいを一つした。「もちろん、わたしは、自由を求めるインド、そしてまた、そのために闘っているインドに対して、心からの共鳴を感じていますよ。しかし、あなたのあ

『街の灯』の封切の日,私のために乾杯の音頭をとるウィンストン・チャーチル(ロンドン)

の機械嫌いというのには、どうもちょっとこだわりますね」
 彼は軽く笑ってうなずいた。わたしは、なおもあとをつづける。「要するにですよ、機械というものが、世のため、人のためということで使われさえすれば、これは人間を奴隷の状態から解放し、労働時間を短縮し、それによって、知性の向上、生活のよろこびというものを、増進するのに役立つことはきまってるんですからね」
「おっしゃることはよくわかります」彼は静かに言った。「しかしですよ、インドでは、それらの目的を達成する前に、まずイギリスの支配から解放されなければならないのです。現に過去において、わたしたちは機械のおかげでイギリスの奴隷になってしまったのです。したがって、もしその隷属状態から脱却しようと思えば、唯一の途は、まず機械で作られる一切の商品をボイコットすること、それ以外にはないのです。わたしたちインド人が、自分の糸は自分で紡ぎ、自分の布は自分で織るということ、それをすべての国民の愛国的義務であると規定したのも、実はそのためなのです。これがイギリスのような強大国家に対する、わたしたちの攻撃法なのです――もちろん、ほかにもまだ理由はいろいろありますがね。たとえばインドとイギリスとでは、風土がちがいます。習慣や欲望もちがいます。イギリスでは寒いために骨の折れる勤労や複雑な経済が必要でしょう。あなた方にはナイフやフォークなど食器を作る工業が必要でしょうが、わたしたちは指で食べます。そうしたことが、そのままいろんな相違になって現われてくるわけです」
 なるほど、よくわかつた。自由のために闘っているインドの闘争、そのいわば用兵作戦における立派な実物教訓を示されたようなものだった。そしてそれは、逆説めいて聞えるかもしれぬが、鉄のような実行意志をもった、きわめて現実的、かつ男性的な理想家によって鼓舞されているのだった。彼はまた、こんなことも言った。最高の独立とは、 一切の不要なものをふりすてることであり、また暴力は、必ず結局において自滅するというのだった。
 報道陣が引きあげると、彼は、しばらく残って彼らの礼拝を見て行かないかと言った。まずガンジーが床にあぐらをかいて坐ると、五人のインド人たちも、彼を囲んで丸くなって坐る。ロンドン貧民街のどまんなか、六人の人間が小さな部屋の床に
賜だらをかいて坐っている。サフラン色の太陽がはるか屋根のかなたにみるみる沈んでゆく。敬虔な祈りの声がしずかに流れる。そしてわたしひとりがソフアに坐って、彼らを見おろし漿熟弔げ檄膨雄銀飾つ妙綺勁崎げ度っけ孵熟掛隷れ瑚い凛畔Ⅷ行制げ鑑一改資け篠は凛い和稀榊りの声を聞いていると、すべて霧のように消えてしまうのだった。なんという大きな逆説だろう。

3:32 午前  
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伝チヤップリン自伝





である。そのガンジーに会ってみないかと言われたので、もちろん、わたしは喜んで応じた。
 会ったのは、イースト・インディア・ドツク・ロードを少しはずれた貧民街のひどくみすぼらしい家でだった。通りには人があふれ、記者とカメラマンとが、 一、三階ともぎっしりヽハ」ボいになっていた。会見は通りに面した三階、十二フィート平方ほどの部屋で行われた。大聖者はまだ来ていなかったので、わたしは待ちながら、何を話したものか、いろいろと考えてみた。投獄、ハンガー・ストライキ、そしてインドの自由のために闘ってきた、等々といったことについては、すでに聞いていたし、また機械文明反対論者であることも、漠然とながら知っていた。
 やっと彼が着いた。腰布をたくし上げながら、タクシーから降りてくると、たちまちまわりからは、万歳、万歳の声が湧き上った。このごみごみした狭い貧民街で、いま一人の外国人が群衆の歓呼を浴びながら、わびしい小さな家に入って行く。なんともそれは妙な光景だった。彼は三階にあがると、すぐに窓から顔を出乳言通りの群衆に手をふったのである。
 ソファに並んで坐ると、たちまちフラッシュの一斉射撃を受けた。わたしは彼の右手に坐わっ教いだ蒔ない相い一″%腱獄「削堀現れい』靱凱わ静なけ餞舞赫砂漱械¨嗅わには蹴に精い婦人が坐っていて、しきりになにかくどくどと話しかけてくる。だが、わたしのほうはガンジーと話す話題のことばかり夢中になって考えているのだから、そんな話など一言も耳にははいっていない。ただフンフンと肯ぐかけだつた。さてヽいよいよ口火を切らなくてはならないのだが、といって、わたしの最近作、どうごらんになりましたか? などと訊きだすのも、相手がガンジーとあっては、変なものにきまっている、――第一、彼が映画など見るかどうか、そのほうがまず問題だった。だが、そのうちに一人のインド婦人が、突然高飛車に例の若い婦人のおしゃべりを封じてしまった。「あなた、いいかげんにおしゃべりおやめになったらどう? チャップリンさんとマハトマとのお話を伺いましょうよ」
 ぎっしりつまった部屋の中が、 一瞬シーンとなった。仮面のようなガンジーの顔が、わたしの言葉を待って緊張した。おそらく同時に、全インド人の緊張ででもあったのだろう。わたしは、まずせきばらいを一つした。「もちろん、わたしは、自由を求めるインド、そしてまた、そのために闘っているインドに対して、心からの共鳴を感じていますよ。しかし、あなたのあ

『街の灯』の封切の日,私のために乾杯の音頭をとるウィンストン・チャーチル(ロンドン)

の機械嫌いというのには、どうもちょっとこだわりますね」
 彼は軽く笑ってうなずいた。わたしは、なおもあとをつづける。「要するにですよ、機械というものが、世のため、人のためということで使われさえすれば、これは人間を奴隷の状態から解放し、労働時間を短縮し、それによって、知性の向上、生活のよろこびというものを、増進するのに役立つことはきまってるんですからね」
「おっしゃることはよくわかります」彼は静かに言った。「しかしですよ、インドでは、それらの目的を達成する前に、まずイギリスの支配から解放されなければならないのです。現に過去において、わたしたちは機械のおかげでイギリスの奴隷になってしまったのです。したがって、もしその隷属状態から脱却しようと思えば、唯一の途は、まず機械で作られる一切の商品をボイコットすること、それ以外にはないのです。わたしたちインド人が、自分の糸は自分で紡ぎ、自分の布は自分で織るということ、それをすべての国民の愛国的義務であると規定したのも、実はそのためなのです。これがイギリスのような強大国家に対する、わたしたちの攻撃法なのです――もちろん、ほかにもまだ理由はいろいろありますがね。たとえばインドとイギリスとでは、風土がちがいます。習慣や欲望もちがいます。イギリスでは寒いために骨の折れる勤労や複雑な経済が必要でしょう。あなた方にはナイフやフォークなど食器を作る工業が必要でしょうが、わたしたちは指で食べます。そうしたことが、そのままいろんな相違になって現われてくるわけです」
 なるほど、よくわかつた。自由のために闘っているインドの闘争、そのいわば用兵作戦における立派な実物教訓を示されたようなものだった。そしてそれは、逆説めいて聞えるかもしれぬが、鉄のような実行意志をもった、きわめて現実的、かつ男性的な理想家によって鼓舞されているのだった。彼はまた、こんなことも言った。最高の独立とは、 一切の不要なものをふりすてることであり、また暴力は、必ず結局において自滅するというのだった。
 報道陣が引きあげると、彼は、しばらく残って彼らの礼拝を見て行かないかと言った。まずガンジーが床にあぐらをかいて坐ると、五人のインド人たちも、彼を囲んで丸くなって坐る。ロンドン貧民街のどまんなか、六人の人間が小さな部屋の床に
賜だらをかいて坐っている。サフラン色の太陽がはるか屋根のかなたにみるみる沈んでゆく。敬虔な祈りの声がしずかに流れる。そしてわたしひとりがソフアに坐って、彼らを見おろし漿熟弔げ檄膨雄銀飾つ妙綺勁崎げ度っけ孵熟掛隷れ瑚い凛畔Ⅷ行制げ鑑一改資け篠は凛い和稀榊りの声を聞いていると、すべて霧のように消えてしまうのだった。なんという大きな逆説だろう。

3:34 午前  
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チャップリン自伝下310頁#22




 やっと彼が着いた。腰布をたくし上げながら、タクシーから降りてくると、たちまちまわりからは、万歳、万歳の声が湧き上った。このごみごみした狭い貧民街で、いま一人の外国人が群衆の歓呼を浴びながら、わびしい小さな家に入って行く。なんともそれは妙な光景だった。彼は三階にあがると、すぐに窓から顔を出乳言通りの群衆に手をふったのである。
 ソファに並んで坐ると、たちまちフラッシュの一斉射撃を受けた。わたしは彼の右手に坐わっ教いだ蒔ない相い一″%腱獄「削堀現れい』靱凱わ静なけ餞舞赫砂漱械¨嗅わには蹴に精い婦人が坐っていて、しきりになにかくどくどと話しかけてくる。だが、わたしのほうはガンジーと話す話題のことばかり夢中になって考えているのだから、そんな話など一言も耳にははいっていない。ただフンフンと肯ぐかけだつた。さてヽいよいよ口火を切らなくてはならないのだが、といって、わたしの最近作、どうごらんになりましたか? などと訊きだすのも、相手がガンジーとあっては、変なものにきまっている、――第一、彼が映画など見るかどうか、そのほうがまず問題だった。だが、そのうちに一人のインド婦人が、突然高飛車に例の若い婦人のおしゃべりを封じてしまった。「あなた、いいかげんにおしゃべりおやめになったらどう? チャップリンさんとマハトマとのお話を伺いましょうよ」


 ぎっしりつまった部屋の中が、 一瞬シーンとなった。仮面のようなガンジーの顔が、わたしの言葉を待って緊張した。おそらく同時に、全インド人の緊張ででもあったのだろう。わたしは、まずせきばらいを一つした。「もちろん、わたしは、自由を求めるインド、そしてまた、そのために闘っているインドに対して、心からの共鳴を感じていますよ。しかし、あなたのあ
の機械嫌いというのには、どうもちょっとこだわりますね」
 彼は軽く笑ってうなずいた。わたしは、なおもあとをつづける。「要するにですよ、機械というものが、世のため、人のためということで使われさえすれば、これは人間を奴隷の状態から解放し、労働時間を短縮し、それによって、知性の向上、生活のよろこびというものを、増進するのに役立つことはきまってるんですからね」
「おっしゃることはよくわかります」彼は静かに言った。「しかしですよ、インドでは、それらの目的を達成する前に、まずイギリスの支配から解放されなければならないのです。現に過去において、わたしたちは機械のおかげでイギリスの奴隷になってしまったのです。したがって、もしその隷属状態から脱却しようと思えば、唯一の途は、まず機械で作られる一切の商品をボイコットすること、それ以外にはないのです。わたしたちインド人が、自分の糸は自分で紡ぎ、自分の布は自分で織るということ、それをすべての国民の愛国的義務であると規定したのも、実はそのためなのです。これがイギリスのような強大国家に対する、わたしたちの攻撃法なのです――もちろん、ほかにもまだ理由はいろいろありますがね。たとえばインドとイギリスとでは、風土がちがいます。習慣や欲望もちがいます。イギリスでは寒いために骨の折れる勤労や複雑な経済が必要でしょう。あなた方にはナイフやフォークなど食器を作る工業が必要でしょうが、わたしたちは指で食べます。そうしたことが、そのままいろんな相違になって現われてくるわけです」
 なるほど、よくわかつた。自由のために闘っているインドの闘争、そのいわば用兵作戦における立派な実物教訓を示されたようなものだった。そしてそれは、逆説めいて聞えるかもしれぬが、鉄のような実行意志をもった、きわめて現実的、かつ男性的な理想家によって鼓舞されているのだった。彼はまた、こんなことも言った。最高の独立とは、 一切の不要なものをふりすてることであり、また暴力は、必ず結局において自滅するというのだった。

 報道陣が引きあげると、彼は、しばらく残って彼らの礼拝を見て行かないかと言った。まずガンジーが床にあぐらをかいて坐ると、五人のインド人たちも、彼を囲んで丸くなって坐る。ロンドン貧民街のどまんなか、六人の人間が小さな部屋の床に
賜だらをかいて坐っている。サフラン色の太陽がはるか屋根のかなたにみるみる沈んでゆく。敬虔な祈りの声がしずかに流れる。そしてわたしひとりがソフアに坐って、彼らを見おろし漿熟弔げ檄膨雄銀飾つ妙綺勁崎げ度っけ孵熟掛隷れ瑚い凛畔Ⅷ行制げ鑑一改資け篠は凛い和稀榊りの声を聞いていると、すべて霧のように消えてしまうのだった。なんという大きな逆説だろう。

3:42 午前  
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チャップリンと赤狩り | 人生を楽しむ力 by カサブランカ
http://yaplog.jp/bscasablanca/archive/2163
チャップリンと赤狩り
September 19 [Fri], 2014, 11:26
1952年9月19日、アメリカ法務長官が
映画「ライムライト」のプレミアのためロンドンに向かっていた
チャールズ・チャップリンのアメリカへの再入国を禁止した。
いわゆる「赤狩り」であった。

ハリウッドでの赤狩りは、マッカーシー議員の起こした
反共現象マッカーシズムとは少し異なり
下院の非米活動委員会が行ったハリウッド・テンの告発投獄に始まる。

しかしハリウッドの赤狩りが本格化し、裏切りや密告が横行し、
1951年の第24回聴聞会からはマッカーシズムとリンクする形で
異なる意見を拒否する風潮が蔓延して行く。


ハリウッド・テンの中にダルトン・トランボなる脚本家がいた。
他の映画人に比べ撮影の現場に顔を出す必要のない脚本家は
偽名を使う事で仕事を続けることが出来た。

彼は映画界を追放後も、協力してくれる人物の助けで
密かに脚本を書き続け歴史的名作「ローマの休日」を生んだ。
この脚本がトランボのものだと分かったのは後の事である。

こうした中に政府の反共活動に協力した人物もいた。
映画「エデンの東」の監督エリア・カザンである。

1998年にエリア・カザンがアカデミー名誉賞を受賞した時
集まっていた半数以上のハリウッドスター達は
拍手も送らず拒否態度をとっていた。

俳優のリチャード・ドレイファスは、
彼の受賞に抗議して式への出席を止めると宣言文を発表するほどだった。
この光景に赤狩りの遺恨は映画界に根強く残っている事を感じた。

「赤狩り」というくだらない政策はハリウッドから優れた人材を失い、
当たり障りのない娯楽映画しか作れない場所になって行く。

そんなハリウッドに新たな風が吹くのは20年後、
ご都合主義に嫌気がさした若者が起ち上げる
ニューシネマ時代である。


赤狩りの象徴的な事件となったチャップリンの追放劇は、
アメリカの一般国民の反感をかい、名声を利用しようとした世界各国の
右派、左派両方から政治的に利用される結果となった。

アメリカを去ったチャップリンはスイスのブドウ畑を臨む邸宅に移り住み、
妻ウーナや8人の子供達と幸せな晩年を送る。

世界的な名士として尊敬され、
先日他界した山口淑子らとも親密な交友関係を築いた。

それは時代に翻弄された者同志の絆であったのだろう。

11:00 午前  
Blogger yoji said...

チャップリンの映画「モダン・タイムス」がアメリカで公開された日 - 今日のことあれこれと・・・
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/5c331ea365b174a6e53847ba2680a8ee
チャップリンが再びアメリカの土を踏んだのは20年後の1973(昭和48)年、第44回アカデミー特別賞(名誉賞)を受けたときであり、授賞式のフィナーレで、彼がオスカー像を受け取る際、会場のゲスト全員で歌詞の付いた「スマイル」の曲が歌われた。

11:02 午前  
Blogger yoji said...

チャップリンの「独裁者」より、史上最高の演説。「いずれ憎しみは消え去り、独裁者たちは死に絶える」。 - Everyone says I love you !
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/d11bf8370657a8c6a160324c447c7ab1
 チャールズ・チャップリンの「独裁者」は、アメリカがナチスドイツと戦うより前の1940年に公開された映画です。

 この映画が公開された頃には、ナチス・ドイツのオーストリア併合(1938年)や ポーランド侵攻(1939)が起きていたにもかかわらず、世界はヒトラーとナチスの危険性について十分には認識していませんでした。

 たとえば、アメリカでもケネディ大統領の父親や、リンドバーグ、ディズニーなど、ヒトラーを擁護する者も多かったのです。

 そんな中、その鋭い感受性でナチズムの危険性に気づき、全身全霊でヒトラー批判の映画を作ったのが無声映画の雄、喜劇王チャールズ・チャップリンでした。

11:04 午前  
Blogger yoji said...



明日死ぬかのように生きよ
永遠に生きるかのように学べ

ガンジー
https://lh3.googleusercontent.com/-NtEMyZ1K1DA/WhKog5a8FZI/AAAAAAABW60/w_a4mKI-A6IA2zA7zhfj2RGcM17HTrncwCHMYCw/s640/blogger-image-965545606.jpg
小平奈緒

2:05 午前  
Blogger yoji said...


インドを独立させたのはマルクスの思想ではなくガンジーの思想。
糸紡ぎ機も塩の行進も自給自足的な経済の裏付けを志向している。自立分散的なアナーキズム思想と言っていい。
以下、ガンジー『自立の思想』地湧社88~91頁より

 《生産を各地で分散して行って初めて、分配は平等に行えるようになります。
つまり、生産と同時に分配が行われるようにならない限り意味がありません。
自分たちの商品を売るために外部の市場を開拓しようと思っている限り、分配
が平等に行われることはありえません。

 西洋が成し遂げた科学の驚異的な進歩や組織が無用の物ということではあり
ません。西洋の人々も彼らの技術を活用すべきです。ただし、善意から自分たち
の技術を外国で利用したいと思うのであれば、アメリカ人は次のように言うべき
です。「我々は橋を作る技術を持っています。それを秘密にしておくつもりはあ
りません。全世界に教えてあげたいのです。橋の作り方を教えてあげましょう。
もちろん代価を要求するつもりもありません」と。また、アメリカ人は次のよう
にも言うことでしょう。「他の国が小麦一粒育てるところ、我々は二千粒育てる
ことができます」。そして、アメリカは教えを請う者にその技術を無料で伝授す
るのです。しかし、全世界が必要とする小麦を自分たちで栽培しょうなどと企て
るのはとんでもないことです。そんなことをすれば、この世にとっては実に惨め
な時代の到来となるでしょう。》

2:15 午前  
Blogger yoji said...


インドを独立させたのはマルクスの思想ではなくガンジーの思想。
糸紡ぎ機も塩の行進も自給自足的な経済の裏付けを志向している。自立分散的な
アナーキズム思想と言っていい。
以下、ガンジー『自立の思想』地湧社88~91頁より

 《生産を各地で分散して行って初めて、分配は平等に行えるようになります。
つまり、生産と同時に分配が行われるようにならない限り意味がありません。
自分たちの商品を売るために外部の市場を開拓しようと思っている限り、分配
が平等に行われることはありえません。

 西洋が成し遂げた科学の驚異的な進歩や組織が無用の物ということではあり
ません。西洋の人々も彼らの技術を活用すべきです。ただし、善意から自分たち
の技術を外国で利用したいと思うのであれば、アメリカ人は次のように言うべき
です。「我々は橋を作る技術を持っています。それを秘密にしておくつもりはあ
りません。全世界に教えてあげたいのです。橋の作り方を教えてあげましょう。
もちろん代価を要求するつもりもありません」と。また、アメリカ人は次のよう
にも言うことでしょう。「他の国が小麦一粒育てるところ、我々は二千粒育てる
ことができます」。そして、アメリカは教えを請う者にその技術を無料で伝授す
るのです。しかし、全世界が必要とする小麦を自分たちで栽培しようなどと企て
るのはとんでもないことです。そんなことをすれば、この世にとっては実に惨め
な時代の到来となるでしょう。》

2:17 午前  
Blogger yoji said...

>>465
牧歌的な村落共同体がたとえ無害にみえようとも、それがつねに東洋専制政治の強固な基礎となってきたこと、
またそれが人間精神をありうるかぎりのもっとも狭い範囲にとじこめて、人間精神を迷信の無抵抗な道具にし、伝統的な規則の奴隷とし、
人間精神からすべての雄大さと歴史的精力を奪ったことを、忘れてはならない。

受動的な生き方が、他方では対照的に、乱暴で、盲目的で、とどまるところを知らない破壊力をよびおこし、ヒンドゥスタンでは殺人をさえ宗教上の祭式にしたことを、忘れてはならない。

(「イギリスのインド支配」)

「進歩史観」は必要だと思う。

なるほどイギリスがヒンドゥスタンに社会革命をひきおこした動機は、もっともいやしい利益だけであり、その利益を達成する仕方もはかげたものであった。
しかし、それが問題なのではない。問題は、人類がその使命を果たすのに、アジアの社会状態の根本的な革命なしにそれができるのかということである。
できないとすれば、イギリスがおかした罪がどんなものであるにせよ、イギリスはこの革命をもたらすことによって、無意識に歴史の道具の役割を果たしたのである。
(「イギリスのインド支配」)

マルクスはこうも指摘している。

特定の進歩史観を絶対視しないために、客観的な社会の分析として『資本論』を書いた。

2:18 午前  
Blogger yoji said...

柄谷行人が定本トランスクリティークでロールズを引用している

ロールズ、『正義論』フランス語版序文より

 「この場合、はじめから少数者にではなく市民全員の手に生産手段が委ねられ、それに
よって市民が社会生活のためにじゅうぶんな協力体制を組めるように、諸制度を整備し
なければならなくなる。強調されるべきは、ある期間を通じて資本および資源の所有が
偏りなく分散され、しかもそうした所有の分散が、相続と譲渡に関する法律、機会の公正な
均等を求める法律(それに基づいて教育や育成のための諸方策が認可される)、さらに
政治的自由の公正な価値を守るための諸制度に関する法律によって、実現されるという
ことである。」

                 川本隆史・米谷園江訳「みすず」No.385より(1993.4)
                 原典、ロールズ『正義論』フランス語版(1987)

7:22 午前  
Blogger yoji said...

ロールズ (「現代思想の冒険者たち」Select) | 川本 隆史 |本 | 通販 ...
www.amazon.co.jp/ロールズ...川本.../4062743604
またロールズ (「現代思想の冒険者たち」Select)もアマゾン配送商品なら通常配送無料。 ... 巻末の用語集ではとても解りやすく噛み砕かれており、さまざまなロールズらしい逸話(ベトナム戦争徴兵時のハーバードでのくじ引きの話とか)が盛り込まれています。
くじ引きとしての生 - box96 - はてなダイアリー
d.hatena.ne.jp/box96/20130606/1370514492
私が担当したのは、ジョン・ロールズの「正義論」についての項目で、一昨年にNHKでやっていたハーバードの授業の影響 ... そのため、フェアネスの実現した社会というのは、どんなくじを引き、どんな立場に生まれたかを問わず、誰もが機会 .... 裕福な家庭に生まれる人、美しい母親から生まれる人、飢餓や戦争のまっただ中に生まれる人、 それらがすべて運命だとすれば、神様ってやつはとんでもなく理不尽で残酷だ。
思想の哲学: ジョン・ロ-ルズ
sisoutetsugaku.blogspot.com/2010/.../blog-post_4008.h...
1.正義論 (1)ロールズ正義論の背景 ロールズもまた、それまで信じられてきた基本的諸価値が根底から揺らいだ戦後に、正義論の構想を行っていた。ベトナム戦争は正当化しがたい戦争であり、アメリカの自信も揺らいでいた。公民権 ...
正義論
note.masm.jp/正義論/
ジョン・ロールズ『正義論』1971年刊行。 『正義論』の背景. 正義の問題の再検討へ向かわせた同時代的な政治的出来事として、1960年代の黒人を中心とした公民権運道の高まりやベトナム戦争の衝撃。 アカデミズム内部の独自の展開…

7:29 午前  
Blogger yoji said...

バートランド・ラッセルの言葉(スマホ対応)
http://russell-j.com/beginner/sp/BR-KAKUGEN150.HTM
非暴力による抵抗は確かに重要な役割をもっている。たとえばガンジーが
反英国闘争においてインドを勝利に導いたようにである。しかしながら,
それは,その無抵抗手段,もしくは非暴力抵抗手段が適用されるその相手に対
して何らかの確実な効果があるかどうかにかかっている。

1:19 午前  
Blogger yoji said...

ラッセルはフェビアン協会のメンバーでもあった

バートランド・ラッセルもメンバーになった。このグループは革命的ではなく、むしろ緩やかな変革を志向(社会改良主義)していた。このように、漸進的な社会変革によって教条主義的マルクス主義に対抗し、暴力革命を抑止する思想や運動をフェビアン主義(フェビアニズム)と呼ぶ。


フェビアン協会 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/フェビアン協会
フェビアン協会(フェビアンきょうかい、Fabian Society)は、19世紀後半に ... その後、 バートランド・ラッセルもメンバーになった。 ... に対抗し、暴力革命を抑止する思想や運動をフェビアン主義(フェビアニズム)と呼ぶ。

1:22 午前  
Blogger yoji said...

バートランド・ラッセルの言葉(スマホ対応)
http://russell-j.com/beginner/sp/BR-KAKUGEN150.HTM
非暴力による抵抗は確かに重要な役割をもっている。たとえばガンジーが
反英国闘争においてインドを勝利に導いたようにである。しかしながら,
それは,その無抵抗手段,もしくは非暴力抵抗手段が適用されるその相手に対
して何らかの確実な効果があるかどうかにかかっている。

ちなみにラッセルはフェビアン協会のメンバーでもあったフェビアン協会
(Fabian Society)は革命的ではなく、緩やかな変革を志向(社会改良主義)
していた。
漸進的な社会変革によって教条主義的マルクス主義に対抗し、暴力革命
を抑止する思想や運動をフェビアン主義(フェビアニズム)と呼ぶ。

1:25 午前  
Blogger yoji said...

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ラッセル=アインシュタイン宣言
ラッセル=アインシュタイン宣言(ラッセル=アインシュタインせんげん、Russell-Einstein Manifesto)は、イギリスの哲学者・バートランド・ラッセル卿と、アメリカの物理学者・アルベルト・アインシュタイン博士が中心となり、1955年7月9日にロンドンにて当時の第一級の科学者ら11人の連名で、米ソの水爆実験競争という世界情勢に対して提示された核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えた宣言文である[1]。

これを発表した3か月ほど前にアインシュタインが没しており、アインシュタインが人類に放った遺言状ともいえる。この宣言には、日本人の湯川秀樹も署名している。レオポルト・インフェルト以外全員がノーベル賞を受賞している。科学者平和宣言とも言える。

なおこの宣言の要請を受けて、1957年よりパグウォッシュ会議が開催されることとなった。第1回をカナダのパグウォッシュ村で開催した。日本からは、湯川秀樹、朝永振一郎等が参加した。

宣言署名者 編集

マックス・ボルン
パーシー・ブリッジマン
アルベルト・アインシュタイン
レオポルト・インフェルト
フレデリック・ジョリオ=キュリー
ハーマン・J・マラー
ライナス・ポーリング
セシル・パウエル
ジョセフ・ロートブラット
バートランド・ラッセル
湯川秀樹
脚注 編集

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^ 中村久司 『観光コースでないロンドン イギリス2000年の歴史を歩く』 高文研、2014年、250頁。ISBN 978-4-87498-548-9。
外部リンク 編集

The Russell-Einstein Manifesto - パグウォッシュ会議
ラッセル・アインシュタイン宣言 - 日本パグウォッシュ会議
執筆の途中です この項目は、平和に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:平和)。
ノート

1:26 午前  
Blogger yoji said...

http://www.pugwashjapan.jp/russell-einstein-manifesto

ラッセル=アインシュタイン宣言 1955 全文

人類が直面している悲劇的な情勢の中、科学者による会議を召集し、大量破壊兵器開発によってどれほどの危機に陥るのかを予測し、この草案の精神において決議を討議すべきであると私たちは感じている。
私たちが今この機会に発言しているのは、特定の国民や大陸や信条の一員としてではなく、存続が危ぶまれている人類、いわば人という種の一員としてである。世界は紛争にみちみちている。そこでは諸々の小規模紛争は、共産主義と反共産主義との巨大な戦いのもとに、隠蔽されているのだ。
政治的な関心の高い人々のほとんどは、こうした問題に感情を強くゆすぶられている。しかしもしできるならば、皆ににそのような感情から離れて、すばらしい歴史を持ち、私たちのだれ一人としてその消滅を望むはずがない 生物学上の種の成員としてのみ反省してもらいたい。
私たちは、一つの陣営に対し、他の陣営に対するよりも強く訴えるような言葉は、一言も使わないようにこころがけよう。すべての人がひとしく危機にさらされており、もし皆がこの危機を理解することができれば、ともにそれを回避する望みがあるのだ。
私たちには新たな思考法が必要である。私たちは自らに問いかけることを学ばなくてはならない。それは、私たちが好むいづれかの陣営を軍事的勝利に導く為にとられる手段ではない。というのも、そうした手段はもはや存在しないのである。そうではなく、私たちが自らに問いかけるべき質問は、どんな手段をとれば双方に悲惨な結末をもたらすにちがいない軍事的な争いを防止できるかという問題である。
一般の人々、そして権威ある地位にある多くの人々でさえも、核戦争によって発生する事態を未だ自覚していない。一般の人々はいまでも都市が抹殺されるくらいにしか考えていない。新爆弾が旧爆弾よりも強力だということ、原子爆弾が1発で広島を抹殺できたのに対して水爆なら1発でロンドンやニューヨークやモスクワのような巨大都市を抹殺できるだろうことは明らかである。
水爆戦争になれば大都市が跡形もなく破壊されてしまうだろうことは疑問の余地がない。しかしこれは、私たちが直面することを余儀なくされている小さな悲惨事の1つである。たとえロンドンやニューヨークやモスクワのすべての市民が絶滅したとしても2、3世紀のあいだには世界は打撃から回復するかもしれない。しかしながら今や私たちは、とくにビキニの実験以来、核爆弾はこれまでの推測よりもはるかに広範囲にわたって徐々に破壊力を広げるであろうことを知っている。
信頼できる権威ある筋から、現在では広島を破壊した爆弾の2500倍も強力な爆弾を製造できることが述べられている。もしそのような爆弾が地上近くまたは水中で爆発すれば、放射能をもった粒子が上空へ吹き上げられる。そしてこれらの粒子は死の灰または雨の形で徐々に落下してきて、地球の表面に降下する。日本の漁夫たちとその漁獲物を汚染したのは、この灰であった。そのような死をもたらす放射能をもった粒子がどれほど広く拡散するのかは誰にもわからない。しかし最も権威ある人々は一致して水爆による戦争は実際に人類に終末をもたらす可能性が十分にあることを指摘している。もし多数の水爆が使用されるならば、全面的な死滅がおこる恐れがある。――瞬間的に死ぬのはほんのわずかだが、多数のものはじりじりと病気の苦しみをなめ、肉体は崩壊してゆく。
著名な科学者や権威者たちによって軍事戦略上からの多くの警告が発せられている。にもかかわらず、最悪の結果が必ず起こるとは、だれも言おうとしていない。実際彼らが言っているのは、このような結果が起こる可能性があるということ、そしてだれもそういう結果が実際起こらないとは断言できないということである。この問題についての専門家の見解が彼らの政治上の立場や偏見に少しでも左右されたということは今まで見たことがない。私たちの調査で明らかになったかぎりでは、それらの見解はただ専門家のそれぞれの知識の範囲にもとづいているだけである。一番よく知っている人が一番暗い見通しをもっていることがわかった。
さて、ここに私たちが皆に提出する問題、きびしく、恐ろしく、おそらく、そして避けることのできない問題がある――私たちは人類に絶滅をもたらすか、それとも人類が戦争を放棄するか?人々はこの二者択一という問題を面と向かってとり上げようとしないであろう。というのは、戦争を廃絶することはあまりにもむずかしいからである。
戦争の廃絶は国家主権に不快な制限を要求するであろう。しかし、おそらく他のなにものにもまして事態の理解をさまたげているのは、「人類」という言葉が漠然としており、抽象的だと感じられる点にあろう。危険は単にぼんやり感知される人類に対してではなく、自分自身や子どもや孫たちに対して存在するのだが、人々はそれをはっきりと心に描くことがほとんどできないのだ。人々は個人としての自分たちめいめいと自分の愛する者たちが、苦しみながら死滅しようとする切迫した危険状態にあるということがほとんどつかめていない。そこで人々は、近代兵器さえ禁止されるなら、おそらく戦争はつづけてもかまわないと思っている。
この希望は幻想である。たとえ水爆を使用しないというどんな協定が平時にむすばれていたとしても、戦時にはそんな協定はもはや拘束とは考えられず、戦争が起こるやいなや双方とも水爆の製造にとりかかるであろう。なぜなら、もし一方がそれを製造して他方が製造しないとすれば、それを製造した側はかならず勝利するにちがいないからである。軍備の全面的削減の一環としての核兵器を放棄する協定は、最終的な解決に結びつくわけではないけれども、一定の重要な役割を果たすだろう。第一に、およそ東西間の協定は、緊張の緩和を目指すかぎり、どんなものでも有益である。第二に、熱核兵器の廃棄は、もし相手がこれを誠実に実行していることが双方に信じられるとすれば、現在双方を神経的な不安状態に落とし入れている真珠湾式の奇襲の恐怖を減らすことになるであろう。それゆえ私たちは、ほんの第一歩には違いないが、そのような協定を歓迎すべきなのである。
大部分の人間は感情的には中立ではない。しかし人類として、私たちは次のことを銘記しなければならない。すなわち、もし東西間の問題が何らかの方法で解決され、誰もが――共産主義者であろうと反共産主義者であろうと、アジア人であろうとヨーロッパ人であろうと、または、アメリカ人であろうとも、また白人であろうと黒人であろうと――、出来うる限りの満足を得られなくてはならないとすれば、これらの問題は戦争によって解決されてはならない。私たちは東側においても西側においても、このことが理解されることを望んでいる。
私たちの前には、もし私たちがそれを選ぶならば、幸福と知識の絶えまない進歩がある。私たちの争いを忘れることができぬからといって、そのかわりに、私たちは死を選ぶのであろうか?私たちは、人類として、人類に向かって訴える――あなたがたの人間性を心に止め、そしてその他のことを忘れよ、と。もしそれができるならば、道は新しい楽園へむかってひらけている。もしできないならば、あなたがたのまえには全面的な死の危険が横たわっている。

決議
私たちは、この会議を招請し、それを通じて世界の科学者たちおよび一般大衆に、つぎの決議に署名するようすすめる。
「およそ将来の世界戦争においてはかならず核兵器が使用されるであろうし、そしてそのような兵器が人類の存続をおびやかしているという事実からみて、私たちは世界の諸政府に、彼らの目的が世界戦争によっては促進されないことを自覚し、このことを公然とみとめるよう勧告する。したがってまた、私たちは彼らに、彼らのあいだのあらゆる紛争問題の解決のための平和的な手段をみいだすよう勧告する。」

1955年7月9日 ロンドンにて
マックス・ボルン教授(ノーベル物理学賞)
P・W・ブリッジマン教授(ノーベル物理学賞)
アルバート・アインシュタイン教授(ノーベル物理学賞)
L・インフェルト教授
F・ジョリオ・キュリー教授(ノーベル化学賞)
H・J・ムラー教授(ノーベル生理学・医学賞)
ライナス・ポーリング教授(ノーベル化学賞)
C・F・パウエル教授(ノーベル物理学賞)
J・ロートブラット教授
バートランド・ラッセル卿(ノーベル文学賞)
湯川秀樹教授(ノーベル物理学賞)

1:29 午前  
Blogger yoji said...

ラッセル
社会改造の諸原理

マルクス主義に基づく革命的社会主義者の古いタイプの人々は、〔革命後の〕至福の
時代が確立された時に、社会の生活がどうなっているかを、想像して詳しく論ずると
いったことはけっしてやらなかった。おとぎ話の王子さまや王女さまのように、その後
いつまでも人々は幸福に暮らすだろう、とだけ彼らは想像したのである。

1:31 午前  
Blogger yoji said...

http://www.pugwashjapan.jp/russell-einstein-manifesto
ラッセル=アインシュタイン宣言 1955 より

私たちには新たな思考法が必要である。私たちは自らに問いかけることを学ばなくては
ならない。それは、私たちが好むいづれかの陣営を軍事的勝利に導く為にとられる手段で
はない。というのも、そうした手段はもはや存在しないのである。そうではなく、私たち
が自らに問いかけるべき質問は、どんな手段をとれば双方に悲惨な結末をもたらすにちがい
ない軍事的な争いを防止できるかという問題である。

1:33 午前  
Blogger yoji said...

近年発見された古代インダス文明の遺跡に注目!日本人調査隊の最新研究成果とは!?『世界ふしぎ発見!』
4月27日(金) 23:07提供:テレビドガッチ
 4月28日(土)の『世界ふしぎ発見!』(TBS系)は、インド北西部グジャラート州カッチ地方で近年発見された、石を丁寧に積み上げて作られた巨大都市・ドーラーヴィーラー遺跡のふしぎにスポットを当てる。

 このドーラーヴィーラー遺跡、4500年前に栄えたインダス文明のものだと判明し、世界の研究者を驚かせた。インダス文明はインダス川の豊かな水が育んだと考えられてきたが、なぜ川から離れた荒れた地にこのような古代都市が建設されたのだろうか。ミステリーハンターは発掘を担当したラワト博士と共に遺跡を巡る。

 遺跡はおよそ700m四方の広さに、一般市民が暮らす市街地と政治や宗教の中心地と考えられる城塞の二つの地区で形成。看板のような大きなインダス文字が発見されており、王や神の名が記されていたのではないかと考えられる。また、遺跡の中心部には巨大な井戸があり、地下水路も発達していたようだ。水への信仰が厚いインダス文明の宗教儀式で、水が使われていたとのではないかとの指摘もある。

 ところでなぜ大河から離れた荒地にドーラーヴィーラー遺跡が作られたのか。2007年日本の調査隊が考古学、地質学、農学などの手法で環境と文明の関係を解き明かそうと試みた。最新の研究成果とは!?

■出演者
司会 草野仁
アシスタント 出水麻衣(TBSアナウンサー)
解答者 黒柳徹子、板東英二、野々村真、高橋ジョージ、渡部陽一、ビビる大木、たかのてるこ
ミステリーハンター 浜島直子

■『世界ふしぎ発見!』
2012年4月28日(土)21:00~21:54(TBS系)


テレビドガッチ
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インド北西部グジャラート州カッチ
たかのてるこミステリーハンター

12:45 午前  
Blogger yoji said...


http://katayama.life.coocan.jp/selfsufficiency.htm#decentralization

Decentralization of Labour 生産の分散
Q. There the fault lies in distribution. It means that, whilst our system of production has reached a high pitch of perfection, the distribution is still defective. If distribution could be equalized, would not mass production be sterilized of its evils?
A. No, the evil is inherent in the system. Distribution can be equalized when production is localized; in other words, when the distribution is simultaneous with production. Distribution will never be equal so long as you want to tap other markets of the world to dispose of your goods.
That does not mean that the world has not use for the marvellous advances in science and organization that the Western nations have made. It only means that the Western nations have to use their skill. If they want to use their skill abroad, from philanthropic motives, America would say, ‘Well, we know how make bridges, we won’t keep keep it a secret, but we say to the whole world, we will teach you how to make bridges and we will charge you nothing.’ America says, ‘Where other nations can grow one blade of wheat, we can grow two thousand.’ Then, America should teach that art free of charge to those who will learn it, but not aspire to grow wheat for the whole world, which would spell a sorry day for the world indeed.

Q. Then, you do not envisage mass production as an ideal future of India?
A. Oh yes, mass production, certainly, but not based on force. After all, the message of the spinning-wheel is that. It is mass production, but mass production in people's own homes. If you multiply individual production to millions of times, would it not give you mass production on a tremendous scale? But I quite understand that your "mass production" is a technical term for production by the fewest possible number through the aid of highly complicated machinery. I have said to myself that that is wrong. My machinery must be of the most elementary type which I can put in the homes of the millions.
Under my system, again, it is labour which is the current coin, not metal. Any person who can use his labour has that coin, has wealth. He converts his labour into cloth, he converts his labour into grain. If he wants paraffin oil, whcih he cannot himself produce, he used his surplus grain for getting the oil. It is exchange of labour on free, fair and equal terms---hence it is no robbery. You may object that this is a reversion to the primitive system of barter. But is not all international trade based on the barter system?
Look, again, at another advantage, that this system affords. You can multiply it to any extent. But concentration of production ad infinitum can only lead to unemployment. You may say that workers thrown out of work by the introduction of improved machinery will find occupation in other jobs. But in an organized country where there are only fixed and limited avenues of employment, where the worker has become highly skilled in the use of one particular kind of machinery, you know from your own experience that this is hardly possible. Are there not over three millions unemployed in England today?
I hate privilege and monopoly. Whatever cannot be shared with the masses is taboo to me. That is all.

INTERVIEW TO CALLENDER  LONDON, [October 16, 1931]
An American Press correspondent. Pyarelal Nayar, from whose article "Mass Production versus Production by the Masses", this has been extracted does not mention the name. This and the date of the interview have been taken from the manuscript of Mahadev Desai’s Diary, 1931.
The interviewer had earlier met Ford in America, who had put forward the view that demand for cheaper things would stimulate mass production.

Harijan, 2-11-1934

12:41 午前  
Blogger yoji said...

グローバル資本主義の終わりとガンディーの経済学 (インターナショナル新書) (日本語) 新書 – 2020/8/7
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4:01 午前  
Blogger yoji said...

‪ガンジーの手紡ぎ車などは自立分散的生産システムで見習うべきものです。‬

‪《政治権力がなければできないこともあるのは認めましょう。しかし、政治権力にまったく頼らなくてもできることも、山のようにあります。》‬
‪『ガンジー・自立の思想』より‬
‪https://www.amazon.co.jp/dp/B0918ZFZD6/ ‬
‪http://katayama.life.coocan.jp/selfsufficiency.htm#reform‬

7:46 午後  
Blogger yoji said...

… また、アメリカ人は次のようにも言うことでしょう。「他の国が小麦一粒育てるところ、我々は二千粒育てることができます」。そして、アメリカは教えを請う者にその技術を無料で伝授するのです。しかし、全世界が必要とする小麦を自分たちで栽培しようなどと企てるのはとんでもないことです。そんなことをすれば、この世にとっては実に惨めな時代の到来となるでしょう。 聞き手 と言いますと、あなたの描いておられるインドの理想的未来像には、大量生産は存在しないということですか。 ガンジー いいえ、そんなことはありません。無理やりに進められるのでなければ、大量生産は紛れもない理想です。結局のところ、チャルカ(手紡ぎ車)のメッセージもそれです。これも大量生産です。もっとも各家庭での生産が集まって大量になるという意味ですが。一人一人が生産することを何百万倍にも広めていけば、ものすごい規模での大量生産になるのではないですか。しかし、あなた方がおっしゃる「大量生産」というのは、非常に複雑な機械の助けを借りて最小人数で生産活動を行う技術的な用語であると十分理解しているつもりです。それは間違ったことであると、私は自分に言い聞かせてきました。私の考える機械は、庶民の家庭に備えつけることのできる最も初歩的な物でなければなりません。  私の計画では、前にも言いました通り、通貨となるのは労働です。金貨ではありません。働ける人は誰でもこの通貨を持っているのです。つまり富を所有しているのです。その人は労働をすることで衣類、穀物を得ることができます。自分では作り出せない灯油が欲しければ、余分の穀物を用いてそれを得ます。これは労働を自由に、公正かつ対等に交換することであり、奪い合いはあり得ません。原始的な物々交換に戻るのかと反対されるかもしれませんが、国際貿易もすべて交換に基づいているのではありませんか。  このシステムに付随するもう一つの利点についても述べさせてください。このようなシステムならば、どこまでも拡大させることができます。しかし、生産を無制限に集中して行う場合ですと、失業が生じるだけです。進んだ機械の導入によって職を失った労働者は別の仕事に就くだろうと言われるかもしれませんが、工業化された国では決まった限られた数の雇用しかありませんし、労働者はある特定の機械を使用するために高度な技術を持つようになるので、別の仕事に就くのはほとんど不可能であることはすでに経験済みではないでしょうか。現在イギリスには三百万人を超える失業者がいるのではないですか。  私は特権と独占を憎む者です。庶民が分かつことのできないものは禁止すべきです。

1:33 午前  

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