水曜日, 7月 22, 2015

華厳経:メモ

世界古典文学全集〈第7巻〉仏典2 (1965年) 筑摩書房 にも、華厳経21/28の現代語訳が所収されている。鎌田茂雄訳東京美術版には第18章は載っていない。





 

華厳経 

http://www.geocities.co.jp/suzakicojp/kegon1.html

 

第十八章 十無尽蔵品

菩薩が、このような信心を完成すれば、たとい、諸仏、衆生、法界、涅槃界などの、不可思議であることを聞いても、心におどろきをおぼえない。
 この信蔵は、決して退くことのない信、乱れることのない信、こわれることのない信、執著することのない信、如来本性の信である。
 菩薩は、いかなる世界の戒にも執著しない。菩薩は、つねに涅槃に向う戒にしたがい、この戒のために、衆生を悩ますことはしない。菩薩が戒をたもつのは、ただ衆生の利益をおもい、衆生をよろこばせるためである。菩薩は、かたよった見解をはなれ、ただ因縁を観察して、清浄の戒をたもつ。菩薩は、ただ清浄の戒をたもって、ひたすら仏法をもとめ、一切の智慧を成就しようとおもうだけである。戒を犯すひとを見ても、これをいやしみ、ののしって、なやますことはしない。ただ、一心に戒をたもつだけである。
 

一切の諸仏は、衆生は顛倒によって戒をおかす、ということを知っておられる。そこで、わたしは、ひたすら仏道を求め、無上のさとりを完成し、ひろく衆生のために、真実の法を説き、顛倒をはなれ、清浄の戒をたもたしめ、ことごとく無上のさとりを成就せしめよう。』
 菩薩は、みずから、自分の過去世をおもうのに、
『わたしは、限りない昔から、親、兄弟のなかで、罪をおかしてきた。あるいは、相手をあなどって、みずからたかぶったり、あるいは、心が乱れて、節義を失ったり、あるいは、腹をたてて、親しみがなくなったり、このように、迷いまどうて、いろいろな悪をつくってきた。一切衆生もまた、そのとおりで、もろもろの罪をおかしている。どうして、これでよいことがあろう。
 そこでわたしは、みずから罪をはじ、さとりを完成し、また、衆生のために真実の法を説き、衆生をして罪をはじさせ、さとりを完成させよう。』と。
 これが、菩薩の無尽の慚蔵である。

菩薩は、みずから恥じておもうに、
『わたしは、昔から、感覚の対象や、妻子兄弟や、財産や宝物などを、むさぼりもとめて、満足することがなかった。こうしたことは、やめなくてはならない。』

 菩薩は、そのとき、こころにおもうよう、
『わたしは、これまで、命をおとしてきたことは、測り知れないが、ひとを救うために、自分の命を捨てたことは、まだ一度もなかった。幸いに、御馳走や衣服を得たことは、この上もないよろこびである。このさい、わたしは、命をすて、一切をささげて、衆生のためにつくし、大いなる施しを完成しよう。』と。
 これが、菩薩の最後の行じがたい施しである。

菩薩は、過去の諸仏、菩薩のおこないや功徳をきいても、それに執著せず、妄想もおこさない。
 ただ、ひとびとを、教えみちびくために、身をあらわして、ひろく道を説き、衆生をして、仏法を完成せしめようとおもうだけである。
  菩薩は、未来の諸仏、菩薩のおこないや、功徳をきいても、そのすがたをえがかず、こころに執著せず、その仏国に往生しようともおもわず、味わうこともなく、厭うこともなく、心をおさめて、散乱することがない。 菩薩は、ただつぎのようにおもう、『すべての現象は、ことごとく夢のごとくであり、すべてのおこないは、みな真実でない。衆生は、そのことを知らないから、まよいの世界に流転するのである。』菩薩は、みずから、自分の身を観察してみるに、すでに、受胎のときから、不浄で、悪臭をはなち、一片の真実もなく、骨節たがいに組みあって、血肉によっておおわれ、もろもろの孔からは、つねに不浄がながれ、かくして、ついには、しかばねとなる。 菩薩は、このように、わが身を観察して、一念の愛著をも、おこさない。

ありとあらゆるものは、みずから生じたものでもなく、他によってつくられたものでもない、それは、不生であり、不滅であり、施すこともなく、受けることもなく、ことばによって、表しようがないからである。
 
 菩薩のおもいには、十種ある。
 すなわち、 寂かなおもい、 清らかなおもい、 にごりのないおもい、 澄みとおるおもい、 ちりを離れたおもい、 種々のちりを離れたおもい、 あかを離れたおもい、 ひかりかがやくおもい、 たのしむおもい、 さわりやへだてのないおもい、である。
 菩薩が、このおもいをなすとき、いかなる世間も、菩薩のこころを、みだすことはできず、いかなる悪魔も、そのこころを、うごかすことはできない。

以上が華厳経1-21章からの抜粋です。

参考元はこちらです:

http://members13.tsukaeru.net/qookaku/index.html

http://members13.tsukaeru.net/qookaku/mahayana_sutra/mahayana_sutra.html 



原田霊道訳著『現代意訳 華厳経』(書肆心水)
http://www.shoshi-shinsui.com/SPL079.pdf 冒頭50頁分のサンプル 2/28

     ②無一物中無尽蔵

  『華厳経』に、一つの塵の中に全宇宙が宿っていると説かれてあり、天台では「南無の

一念に三千世界を見る」という意味のことが説かれ、禅に「無一物の中に無尽のもの(全

宇宙)がある」といいます。浄土教では「南無の一声にみ佛の兆歳永劫の修行の功徳が込

められている」と、言います。



経典散策・大方広仏華厳経

http://heartland.geocities.jp/nyoimani/

無一物中無尽蔵/並榎山常仙寺 今月の言葉

members3.jcom.home.ne.jp/jousenji/jousenji0726_06.html

無一物中無尽蔵 この「無一物中無尽蔵」という言葉は、中国宋代の詩人蘇東坡(そとう ば)の、 素紈(がん)画かざれば意高き哉 儻(も)し丹青を着ければ二に落ち来る 無一物 中無尽蔵花有り月有り楼臺(ろうだい)有り という詩から引用された句です。 詩の大意は  ...



 蘇軾(蘇東坡)歿
  素紈不画意高哉 儻着丹青堕二来
  無一物中無尽蔵 有花有月有楼臺

 〔 素紈(がん)画かざれば意高き哉
   儻(も)し丹青を着ければ二に堕し来る
     無一物中無尽蔵
       花有り月有り楼臺有り 〕


  漢文で『赤壁賦』を習ったのは確か高校2年生の時。 漢字一字の持つ味わいに妙に引きつけられ漢文の時間は楽しかった。 唐詩選を夢中で読んだが、漢詩を詠むほどに迄は至らなかった。 為すべき時に為さなかった報いを今受けている。 
  蘇東坡は建中靖国元(1101)年7月28日歿、享年65才。

 




※花有淸香月有陰:花には清らかなかおりがあり、月はかげりがある。また、花には清らかなかおりがあり、月光は(地上の物に)かげりを齎(もたら)している。 ・有:…がある。…をもっている。蛇足になるが、同じく蘇軾の『東披禅喜詩・白紙讃』の「素紈不畫意高哉,倘著丹青堕二來;無一物中無盡藏,樓臺。」での「有」とは使い方が異なる。 ・淸香:清らかなかおり。 ・陰:影。また、月の光による物の影(張學成)。なお、蛇足になるが、蘇軾の『水調歌頭』(明月幾時有)では「人有悲歡離合,月有圓缺とあるが、この「陰…」は、晴れの対義の曇りの意で、「晴」は晴れ、「圓」は満月、「缺」は三日月等の月が欠けること。

軸の語は一部分だったり対句があったりする場合が多いと前に申し上げましたが
これも『無一物中無尽蔵』という禅語からの一部です。
調べると、様々な解釈があり、無とか空とか仏教的な観念が難しく、わかったようなわからないような・・・
仏教的素養のない私にはいまいち釈然としません。

ただ、この句はそもそも蘇東坡という古代中国の詩人の
素紈不画意高哉 儻着丹青堕二来 無一物中無尽蔵 有花有月有楼臺
(紈素(がんそ)画(えが)かず意高きかな。若し丹青(たんせい)を著(つ)くれば二に堕し来たる。無一物中無尽蔵 花有り月有り楼台有り)
という詩からきているそうなので
『白いキャンバスにはこれから何でも書ける可能性は無尽蔵だよ
と解釈するのが今の私には一番良い答えのような気がしました。

参考:
NAMs出版プロジェクト: 蘇東坡
http://nam-students.blogspot.jp/2015/01/blog-post_25.html
上記では仏教批判をしているが蘇東坡は基本的に仏教徒である。

蘇東坡

www.fbc.keio.ac.jp/~shoji/sotohba.htm

月刊しにか』1998年11月号 特集名: 蘇東坡-宋代が生んだマルチ文人 819 円 (A5判 ・128頁) 主要目次: 蘇東坡とその時代/ ... 蘇東坡仏教. 石川重雄 「蘇東坡仏教」 『 月刊しにか』1998年11月号、pp.62-62. 『宋元釈語語彙索引』 石川重雄 汲古書院 ...

蘇東坡を愛す - Biglobe

www2s.biglobe.ne.jp/~ubukata/1ka.html

これらの文章に見られる良質の楽天性の背景には、蘇東坡の透徹した人生哲学がある 。彼は仏教徒であると同時に老荘思想の徒でもあった。自分の今の肉体は滅びても、魂 は生まれ変わって、生きとし生けるものをはぐくみ、支える。生きとし生けるもののうち ...

蘇東坡詩選 - 成田山仏教図書館蔵書目録

naritasanlib.org/026/560/1007616.html

成田山仏教図書館蔵書目録/書 名:蘇東坡詩選/叢書名:

心の平安を求めて(仏教と漢詩) 蘇東坡 - FC2

jyousui15.blog51.fc2.com/blog-category-6.html

蘇軾(そしょく)、東坡居士と号したことから蘇東坡と呼ばれる宋代随一の詩人です。 書画にも巧みな天才肌の詩人ですが、政争に巻き込まれ波乱の生涯を送りました。 仏教に帰依し、その禅境を詠った詩を残しています。 谷川の流れる音も、山 ...


蘇東坡と易
http://repository.aichi-edu.ac.jp/dspace/bitstream/10424/4518/1/inkokugokenkyu202338.pdf

蘇東坡と仏僧
http://miuse.mie-u.ac.jp/bitstream/10076/5294/1/AN100450900170016.PDF

 

蘇東坡と仏教 39~
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/36434/20141202143817800062/o4239_3.pdf


重々無尽?

京都嵯峨野・天龍寺の枯山水 ( 京都府 ) 

http://blogs.yahoo.co.jp/akaisuiseinonya/30628722.html
 天龍寺には廻遊式庭園である曹源池と、枯山水の二つの異なる庭があります。
曹源池から本堂である大方丈の反対側、禅堂の横にまわっていくと長方形の白砂が敷き詰められた庭が見えます。
本来こちらが正面玄関の方向になりますが、今回私たちは北門から正門に向かっているので逆になってしまいました。

 廻遊式庭園はもともと散策や船などを浮かべて句を読んだりと、貴族の遊びのための庭でしたが、枯山水は遊楽なぞ無縁の世界の禅の精神を形に表したものです。
天龍寺は中国禅宗五家の一つの臨済宗ですから、むしろこちらのほうが宗旨にあってるでしょう。
もっとも枯山水は室町時代以降に「わびさび」の精神と共に発達しましたから、ここを建立した初代室町将軍足利尊氏の時代には曹源池のような庭こそが普通だったのでしょう。
数寄者の第一人者といえば八代将軍足利義政ですから、彼の時代前後から枯山水も岩や苔を配した趣向の凝らしたものとなってきます。

 チベット仏教で卓上で色とりどりの砂で曼荼羅を描く儀式がありますが、色や大きさは違えど同じ砂を使って仏教の精神性を表す辺り、やはり通じるものがあるのでしょうか。