木曜日, 3月 02, 2017

アテルイ:NHK「英雄たちの選択 征夷大将軍 坂上田村麻呂」: 転載


                 (歴史学日本史リンク::::::::::

アテルイ:NHK「英雄たちの選択 征夷大将軍 坂上田村麻呂」: 転載

http://nam-students.blogspot.jp/2017/03/1000.html


『乱』に見られる森の中に一旦下がる戦術はアテルイがとったもの。


デジタル大辞泉の解説

アテルイ【阿弖流為】

[?~802]平安初期の蝦夷の族長。北上川流域一帯を支配し、延暦8年(789)、征東将軍紀古佐美(きのこさみ)軍を破る。延暦21年(802)、征夷大将軍坂上田村麻呂に降伏し、河内国杜山で処刑された。
(794年坂上田村麻呂参戦)

NHK2016年6月,2017年3月2,3日放送


坂上田村麻呂は、ゆるい日本の元祖なのか?!1000年単位で日本史に影響を与えた男 「英雄たちの選択 征夷大将軍 坂上田村麻呂」: さらさらしなしなダイアリー

http://sarasara4747.seesaa.net/article/439052703.html

坂上田村麻呂は、ゆるい日本の元祖なのか?!1000年単位で日本史に影響を与えた男 「英雄たちの選択 征夷大将軍 坂上田村麻呂」

坂上田村麻呂というと征夷大将軍??っていうことしか浮かんできませんが、なんと清水寺の創建にかかわった人なんだとか。
といっても、あんまりピンとこない坂上田村麻呂ですが、英雄たちの選択で取り上げられましたので書き起こしまとめしました。

東北の蝦夷(えみし)制圧のため征夷大将軍になって戦った坂上田村麻呂。
とうとう蝦夷の指導者・アテルイが降伏したので京へつれていきます。
そしたらですね、アテルイから東北の他の部族を説得するから命を助けてくれって言われるんです。
今回の選択っていうのが、アテルイの命を救うか処刑か?ってことです。

今回にはなんとマンガ界から里中満智子先生が登場!!
どんな発言をなされるか期待度マックスです。

里中:ずっとこのくだりが不思議で
本当にアテルイが言ったのか
むしろ田村麻呂が仕掛けたんじゃないか
だって、アテルイは降伏してきたんです。
今さら生かしてほしいと言うわけない。
田村麻呂がアテルイと相談して、一世一代の大芝居をしたんじゃないか?

磯田:だけど、僕、ブラック田村麻呂、想像してしまうんですよ。
全部はかりごとだったかもしれない。
自分から助命って、あれだけのカリスマ武将が言うわけないと思いますよ。
もし武略としてね、全部やるとしたら、アテルイのカリスマ性を破壊しておきたいですよ。
命乞いをしてきた情けない男に出来る。
んで、そのあと自分がこの男の助命嘆願をしたって言ったら、東北のアテルイの元仲間たちにも頼られる将軍に自分はなれる。
それで、これがうまく行ったら、アテルイとモリを自分の支配に使える。
うまくいかなかったら桓武天皇様がこれを公開処刑してお前よくやったって言って手柄になる。
どこにも損がない。
武略としては最善手なんです。

里中:いや~。政治ってこういうものだな~

宮崎哲弥:(この後、田村麻呂は)官途をのぼりつめるから、磯田説もありかもしれない。

[結果]坂上田村麻呂の選択は、助命嘆願です。けど、アテルイは処刑されます。

鈴木拓也:(日本後紀、死亡記事の中で)田村麻呂は寛容であると書いてある。
部下を大事にした。一方で田村麻呂は、蝦夷の族長を信頼し寛容であった。
寛容とは、相手をよく理解するということ。
常に柔軟な思考を持つことは時代を超えて大事なこと。
様々な問題を解決する糸口になるのではないか。

赤坂憲雄:田村麻呂は、ポスト田村麻呂の時代を切り開いた。
例えば、平泉・中尊寺の建立願文の中に
「生きとし生けるもの全ての命のために この寺をつくる 敵・味方ではなく それを超えていくお互いを寛容にみとめあい融和していく」
といったことを掲げていかざるを得ない。
そういう歴史というか東北には底流にずっと流れている。
田村麻呂は政治的な未来を見通す力を持っていたのかな。

磯田:坂上田村麻呂とアテルイは、時代の流れを変えた。
なんでかっていうと、アテルイが死して桓武天皇の時代の人に”一段落ついた”ってメッセージを与えた。
これがなければ、桓武天皇は依然として戦争と都づくりをやめなかったはずで、桓武天皇は中央集権化に向けて日本の国をガンガン引っ張ってたのをここでストップして、これから平安中・後期のゆるーい日本になるわけですよ。
地方でいろんなことをやりはじめて、そんなにもう中央からゴリゴリ引っ張ってくという形では、だんだんなくなっていく。
もう一回、日本が中央集権に、ものすごくなっていくのは、これはもう近世 秀吉とか徳川政権の時代までないわけで、それを考えると”ゆるーい”支配の日本、地方分権的日本っていうものをアテルイが死んで、桓武があきらめたところから割と長いんじゃないかってことを考えると、1000年単位とかで、すごく日本史に影響をあたえた二人の人物だったと思う。
宮崎:この二人を媒介したのが坂上田村麻呂
磯田:そう。だから見てて、さっき寛容という言葉を先生からおっしゃってくださったんですけれども、寛容の「寛」の字は、ゆるいですよね。
ゆるい日本。その異質を取り込むことができるゆるい日本っていうのが、なんかいい言葉なんじゃないかな。
ですから、いかに後世まで田村麻呂の与えた影響が大きいかっていうのがわかります。

書き起こしここまで~~~~
里中先生の田村麻呂が仕掛けたんじゃないか?の問題提起からの磯田さんのブラック田村麻呂説への展開、面白かったです。
まさか、こんな展開になるとは。議論とはいえドキドキしました。

日本は、良くも悪くも異文化をうまいこと取り込むっていいますよね。
食べ物とかいろんなものを日本風にアレンジしちゃうとか。
神社もあれば、寺もあるみたいな。
これって八百万の神がいてもともとゆるいんだとか、島国気質で波風を立たせたくないからだとかとか色々諸説あると思います。

けど、稲作が入ってきて、中国をお手本に中央集権国家を目指すんだという気持ちになってたわけで、そこで中国風の日本にもなりえたわけです。
そのターニングポイントになった時代に、寛容な人物が政治の中枢にいて政策にその寛容さが影響していたとしたら、このことも日本人の性質に多大なる影響を与えたのかもしれないなぁと感じる一時間でした。

また、赤坂さんのおっしゃってた敵・味方を超えてっていうところ、「京都ぎらい」で語られている敵をも手あつくまつるっていう思想に通じるものを感じますね。
京都的思想の根底に流れるものも、坂上田村麻呂の寛容の心だったのかも??と想像してしまいました。
「京都ぎらい」は、洛中人をディスるだけの軽い感じの新書と思っていたら、ラストで京都の奥深さを感じさせる本だった。

そして、2週ぶち抜きで放送される英雄たちの選択「小牧・長久手の戦い」に「京都ぎらい」井上章一が参戦されるようです。
とても楽しみです!

英雄たちの選択「女たちの江戸城無血開城 和宮と篤姫 大奥の闘い」は、とうとうあの大作家が登場!!
英雄たちの選択「五代友厚」たぐいまれなる見破る力で日本を助けた男!!
「英雄たちの選択」蛮社の獄 意義を唱える人に対する気持ちのありかたを知る
「英雄たちの選択」足利義教"最凶"の将軍を今知るということの意義

『英雄たちの選択』坂上田村麻呂 : 藤原氏と古代史推進委員会

http://kujoh-hujiwarashi.blog.jp/archives/1058164440.html
 ◆テレビ番組紹介◆平安時代、NHK BSプレミアム(2016)  

 「衝突!その時男は何を見た 征夷大将軍・坂上田村麻呂」の放送内容


 英雄的武将? 官僚で侵略者?~田村麻呂の二つの顔

 本放送・再放送も終了したので内容の要点をUPします☆

 古代史上、軍神と称えられる“征夷大将軍”坂上田村麻呂。
 ただ、現在私たちが抱く“征夷大将軍”のイメージとは、古代におけるそれは異なり、
 忘れてならないのは朝廷官僚の役割が第一義であるということです。


 坂上田村麻呂は英雄か侵略者か?

 番組はドキュメンタリー映像の合間に、各界の有識者を招いてのトークを挟む進行です。
 司会は歴史家の磯田道史さんと、渡邊佐和子アナウンサー。

 印象的だったのは、東北学を提唱されている赤坂憲雄さんの“東北側”からの発言の数々。
 (最近は、NHKでもドラマ『火怨・北の英雄 アテルイ伝』が放送されたり<2013年>、
 吉川弘文館の東北をテーマにしたシリーズも刊行されており、東北は要注目ですね)


 まずは根本的な問題なのですが、田村麻呂は中央の支配者・桓武天皇の征夷政策に従って
 東北へ進出したわけで、東北側から見れば侵略行為以外の何物でもないわけです。
 いつでもどこにでもある、国家対部族の問題、国家を拒絶する人々の存在です。

 青森ねぶた祭りで、かつて<坂上田村麻呂賞>なる最高賞が存在したのだが廃止されたという
 赤坂さんが話されたエピソードは初耳で、今なお影を落とす例として興味深いものでした。
 

 田村麻呂は武将というより「武官」、つまり官僚

 坂上田村麻呂は征夷大将軍として、蝦夷の族長・阿弖流為らを屈服させた勇猛な武将、
 というイメージが強いのですが、武力だけではないのです。

 田村麻呂は、最終的には朝廷で正三位大納言にまで昇ります。
 娘を桓武天皇の後宮に入れてもいます。つまり朝廷政治家であったはずなのです


 東北在任時は、陸奥出羽按察使兼陸奥守として、東北の政治経営に傾注しています。

 近年、秋田城跡からは、田村麻呂と同時代の「狄饗料木簡」が出土しており、
 蝦夷の族長らを宴に招くなど懐柔策も盛んに進められていたことが伺えるとのこと。
 東北経営のための壮大な規模の胆沢城の建設も進められました。
 戦に頼ることなく屈服させる効率性を重視した……つまり中央の財政的窮乏や、
 東北の戦後処理についてが、つねに計算されていたのです。

 

 阿弖流為と母礼の降伏――助命嘆願の真実

 延暦21年(802)、胆沢の族長・阿弖流為(あてるい)と母礼(もれ)らが降伏しました。
 ところが阿弖流為らは田村麻呂に助命を要請、肯えば蝦夷全体を朝廷に従うように
 説得すると持ち掛けてきた……もしあなたが田村麻呂だったら彼らを信じる or 信じない?
 というのが今回の「選択」トーク・テーマでした。

 歴史的な結果は周知で、京へ連行した彼らの助命を、田村麻呂は朝廷に嘆願します。
 しかし、その提言は中央に受け入れられることなく、2人は処刑されてしまう……。
 ただ、蝦夷の指導的立場にあった阿弖流為を処刑したことにより、朝廷の長い蝦夷征伐に
 ひとつの区切りをつけることができた……というものです。


 出演者のトークが面白くて、漫画家の里中満智子さんは、「田村麻呂と阿弖流為には
 信頼関係があった」と思う、さらに助命嘆願も、阿弖流為側から持ち掛けるのは不自然で、
 実は田村麻呂側から阿弖流為らに持ち掛けた(仕掛けた)のではないか?
 阿弖流為を救いたい田村麻呂の「一世一代の大芝居」ではないかと。
 ……たしかに、漫画にしたくなるような展開ですね

 そこをさらに司会の磯田さんが、“ブラック田村麻呂”説を展開したのは面白かった
 確かに阿弖流為からの嘆願は不自然で、田村麻呂が仕組んだかもしれない。
 しかしそうすることで阿弖流為のカリスマ性を破壊し、自らが嘆願することで今後の
 東北経営も容易になる……さらに助命が成功しようが成功しまいが、どちらへ転んでも
 田村麻呂には一切の損はない……そうした政治的計算だったのではないかとw

 阿弖流為と田村麻呂
 ▲田村麻呂と阿弖流為(ユキムラ『たむらまろさん』エンターブレイン、2012)より

 ☆★☆

 阿弖流為らの犠牲もあり、こののち対蝦夷は穏やかな政策へ転換していきます。
 既存の勢力を生かした間接統治のような状態であったといわれています。
 志波城の周辺に、蝦夷伝統の形態を維持した族長の墓が見られるそうです。

 今後長く続くことになる、地方分権的な日本のスタートといえそうです。
 “異質”を取り込むことのできる「ゆるい日本」、文化の共生、寛容、などのキーワードで、
 トークは締めくくられていました。

 ☆次回、気になっている田村麻呂墓について、少々補足☆
  坂上田村麻呂の墓か、西野山古墓