日曜日, 5月 14, 2017

華厳経 Avataṃsaka Sūtra

             
            (リンク:::::::::仏教

参考:

善財童子 求道の旅―華厳経入法界品華厳五十五所絵巻より 森本 公誠
https://www.amazon.co.jp/dp/4022572698/

 
 
みほとけ
⁦‪@mihotoke_chan‬⁩
本日は東京 青松寺にて東大寺の森本公誠長老による著書『善財童子の求道の道』講演会を聴講してきました。

華厳経の主旨と成立について、森本長老の話し方が親しみやすくてあっという間でした。
愛くるしさが人気の善財童子ですが、実は華厳経にでてくる勇気のある賢い少年なんですよ。というお話など pic.twitter.com/VAnCqTA0vn
 
2022/12/10 22:22
 
 

https://twitter.com/mihotoke_chan/status/1601568065141231617?s=61&t=Ko1QnnJwUbBWnrPLP4BWyw


NAMs出版プロジェクト: 華厳経 Avataṃsaka Sūtra
http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/blog-post_28.html @

https://www.blogger.com/blog/post/edit/28938242/4372220348294891141



佛身充満諸法界 普現一切衆生前
應受化器悉充満 佛故處此菩提樹
一切佛刹微塵等 爾所佛坐一毛孔
皆有無量菩薩衆 各爲具説普賢行
無量刹海處一毛 悉坐菩提蓮華座
遍満一切諸法界 一切毛孔自在現

盧遮那仏品



34 

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:性起品




wikiより

構成編集

六十華厳経八十華厳経
  • 第一会 寂滅道場会
    • 1 世間浄眼品
    • 2 盧遮那仏品
  • 第二会 普光法堂会
    • 3 如来名号品
    • 4 四諦品
    • 5 如来光明覚品
    • 6 菩薩妙難品
    • 7 浄行品
    • 8 賢首菩薩品
  • 第三会 忉利天宮会
    • 9 仏昇須弥頂品
    • 10 菩薩雲集妙勝殿上説偈品
    • 11 菩薩十住品
    • 12 梵行品
    • 13 初発心菩薩功徳品
    • 14 明法品
  • 第四会 夜摩天宮会
    • 15 仏昇夜摩天宮自在品
    • 16 夜摩天宮菩薩偈品
    • 17 功徳華聚菩薩十行品
    • 18 菩薩十無尽蔵品
  • 第五会 兜率天宮会
    • 19 如来昇兜率天宮一切宝殿品
    • 20 兜率天宮菩薩雲集讃仏品
    • 21 金剛幢菩薩回向品
  • 第六会 他化自在天宮会
    • 22 十地品
    • 23 十明品
    • 24 十忍品
    • 25 心王菩薩問阿僧祇品
    • 26 寿明品
    • 27 菩薩住処品
    • 28 仏不思議法品
    • 29 如来相海品
    • 30 仏小相光明功徳品
    • 31 普賢菩薩行品
    • 32 宝王如来性起品
  • 第七会 普光法堂会
    • 33 離世間品
  • 第八会 逝多林会
  • 第一会 菩提場会
    • 1 世主妙厳品
    • 2 如来現相品
    • 3 普賢三昧品
    • 4 世界成就品
    • 5 華蔵世界品
    • 6 毘盧遮那品
  • 第二会 普光法堂会
    • 7 如来名号品
    • 8 四聖諦品
    • 9 光明覚品
    • 10 菩薩門明品
    • 11 浄行品
    • 12 賢首品
  • 第三会 忉利天宮会
    • 13 昇須弥山頂品
    • 14 須弥頂上偈讃品
    • 15 十住品
    • 16 梵行品
    • 17 初発心功徳品
    • 18 明法品
  • 第四会 夜摩天宮会
    • 19 昇夜摩天宮品
    • 20 夜摩宮中偈讃品
    • 21 十行品
    • 22 十無尽蔵品
  • 第五会 兜率天宮会
    • 23 昇兜率天宮品
    • 24 兜率宮中偈讃品
    • 25 十回向品
  • 第六会 他化自在天宮会
  • 第七会 重会普光法堂会
    • 27 十定品
    • 28 十通品
    • 29 十忍品
    • 30 阿僧祇品
    • 31 如来寿量品
    • 32 諸菩薩住処品
    • 33 仏不思議法品
    • 34 如来十身相海品
    • 35 如来随好光明功徳品
    • 36 普賢行品
    • 37 如来出現品(性起品
  • 第八会 三会普光法堂会
    • 38 離世間品
  • 第九会 逝多園林会

武道における「事理一致」に関する一考察 ──華厳宗思想に着目して──

金 炫勇*・矢野下 美智子*

http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/hbg/file/12070/20160414190051/47-4.pdf

 一つの毛穴(毛孔)に十万三世の仏が存在し,各々の仏には無量の菩薩らがまわりにいて,それぞれ法を説いている。一本の毛先に,無量の仏国土が存在していて,それらの仏国土は,それぞれその広大な空間を少しも損ねていることはない。一切の仏刹は微塵に等しく,爾所の仏は一毛穴に坐し,皆な無量の菩薩衆有りて,各の為に貝さに普賢の行を説きたまう。無量の刹海を一毛に処し,悉く菩薩の蓮華坐に坐し,一切諸の法界を遍満して,一切の毛孔より自由に現ず。過去,現在,未来が現在のこの瞬間に融通・包摂し,また,三世(過去,現在,未来)が同時頓起する30)。

 

華厳経エピソード編-自己相似集合の世界観

http://nichigetu.b-tama.com/e_photo09.html
《そして普賢菩薩の毘廬舎那仏の世界について語る偈文(げもん)「一つの毛孔のなかに、無量のほとけの国土が、装いきよらかに、広々として安住する」とか「一つの微塵のなかに、あらゆる微塵のかずに等しい微細の国土が、ことごとく住している」文献(1)の文章のイメージが、あざやかに浮かび上がるのです。》

NAMs出版プロジェクト: 華厳経

http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/blog-post_28.html


Burke Collection | The Thirty-sixth Stage, from Zenzai Dōji’s Fifty-five Pilgrimages (華厳五十五所絵巻), also known as Zenzai Dōji emaki (善財童子絵巻)

http://burkecollection.org/catalogue/29-the-thirty-sixth-stage-from-zenzai-dōjis-fifty-five-pilgrimages-also-known-as-zenzai-dōji-emaki

TEXT

第三十六知識 沃田城堅固解脫長者讚 :

勤求正[水缶]无休息﹐
徧事如來盡信誠。
清淨莊嚴堅固力﹐
皆從无者念中生。

善財童子の旅:〔現代語訳〕華厳経「入法界品」
 単行本 – 2014/6/20




華厳経エピソード編-自己相似集合の世界観

http://nichigetu.b-tama.com/e_photo09.html

自己相似

今回の展示画像は、一つの円を中心にその周囲に八つの円から構成される合計九個の円を生成素(図1(A))として、これを一つの円の中に相即・相入し、これを3回繰り返した自己相似集合の図形です。さらに繰り返して、もっと小さな円を入れ込むことも可能ですが、繁雑になるのでこの程度にとどめますが、完全な形は無限に繰り返した場合です。これは前回の展示画像と同様に幾何学的に完全な自己相似集合の図形です。

前回と今回の画像を目をこらしてじっと見ていると、ある限られた領域に、その領域の形状よりも小さな無数の相似の集合で構成され、かつきわめて秩序正しく均等に配置されていることが判ります。

そして普賢菩薩の毘廬舎那仏の世界について語る偈文(げもん)「一つの毛孔のなかに、無量のほとけの国土が、装いきよらかに、広々として安住する」とか「一つの微塵のなかに、あらゆる微塵のかずに等しい微細の国土が、ことごとく住している」文献(1)の文章のイメージが、あざやかに浮かび上がるのです。

華厳経を勉強して最も不思議に思うのは1500年も前の昔に上記のような文章がなぜ書けたのであろうということです。普通凡人には何らかのイメージがないと、このような文章は書けませんので、華厳経の作者は天才的な頭脳を持っていたとしか私には考えられないのです。

さて本論に入ります。「相」の意味は広辞苑(第五版)によると、①外見、形状 ③あいともに、互いに ⑤[仏]性質、特徴、現象的なすがた などあり、単に形だけでなく外に表れる性質なども含まれると考えられます。

「自己相似」の意味を自己と他者とが相即・相入し合い、相互に依存する関係にある人々と考えることもできます。ところで幾何学的な自己相似集合の図形は、生成素をその生成素の構成要素の中に相即・相入することの繰り返しで形成されるのでした。この生成素を自己及び他者あるいはこれらの世界と考えると、自己と他者あるいは自己と世界(全体)の差別はなく、他者や全体の中に相即・相入した自己を見出す世界観が浮かび上がり、自己も他者もその全体も調和の視点で相似の集合体と見なせます。

以上自己相似集合の世界は、自己を全体の必要不可欠の構成要素として位置付け、かつ他者と全く平等であることを明示する構造なのです。

文献(1)の「重重無尽の縁起の教え」の項で、「十玄門」について「・・・、 自己についても、本来、他者の要素を自己の中に豊かに有しているのであり、 世界の中の一存在であると同時に、もとよりあらゆる他者に開かれた存在であることが見えてくることでしょう。・・・ この自己がかけがえのない自己であるがゆえに全体なのであり、かつ他のあらゆる主体と相即・相入していることを思うべきでしょう。」と記述されています。

なお自己相似集合図形が華厳の思想になじみやすい事例をもう一つ挙げると、展示画像の背景は、因陀羅網を意味する網の目構造の自己相似集合です。この華厳思想を具体的に表現している網の目構造は、三本のベクトルが一点に集束するような生成素(図1(B))の自己相似集合として容易につくれます。この生成素の三本の線分(ベクトル)は、あたかも三本足の鼎(かなえ)のように、いずれが主でもなく従でもなく、互いに補い合って依存しています。

図1 展示画像の生成素
展示画像の生成素
自己相似集合とフラクタル

「フラクタル(Fractal)」という用語は、1975年にベノワ・マンデルブローが新たに考案した言葉であり、語源は不規則を意味するラテン語のfractusで、小片、断片、微小、破片などの意味が含まれるといわれています。これらの意味にはさらに深い意味があるものと考えられますが、これについてはまた別の機会に説明します。ここではより一般的な意味について記述します。フラクタルについて、文献(3)の招待論文の中でマンデルブローは下記のように記しています。

「自分でフラクタルと呼んだ形状はすべて「ざらざらしていて自己相似的」という性質をもっていた。 相似といっても必ずしも幾何学的相似の意味はなく、「似ている」といったつごうのよいゆるい意味である」。

フラクタルという言葉 を学術用語として難しくとらえるよりは、自然界や社会のモデルとして、もっと身近な存在としてとらえたほうが役に立ちそうです。マンデルブロー自身これを多くの欲望が対立する株価の変動モデルとして応用しています。

ここでは,この「ざらざらしていて自己相似的」という世界は、前々回及び前回でも検討したように、多かれ少なかれ自我をもつ善男善女の住むこの世を表していると考えてもよさそうです。この世界は自然界の現象も含めて現実社会の複雑性があり、きわめて魅力的なのです。

これに対して今回展示したような滑らかな円の幾何学的自己相似集合の図形は、比較的単純な構造のため基本的な世界観を説明するときには役立つのですが、完成度が高すぎて(秩序が良すぎて)、 創造性という面からはあまり面白くないのです。

このように自己相似集合図形と言っても、簡単な手法で作ることができる幾何学的な図形と、 漸化式による決定論的カオスから生まれる「華厳経の風景」で見られるような、局部的な自己相似性をもつより複雑で創造性の豊かな図形とがあります。

2007.2.12

参考文献

(1)竹村牧男:NHKこころの時代「ブッダの宇宙を語る、華厳の思想(上)(下)」日本放送出版協会、2002年4月
竹村牧男:「華厳とは何か」、(株)春秋社、2004年3月
(2)中村量空:「複雑系の意匠」(中公新書)、中央公論社、1998年10月
(3)パイトゲン/リヒター:「フラクタルの美」(宇敷重広訳)、シュプリンガー・フェ アラーク東京(株)、1988年6月



華厳経エピソード編-自己究明/視点による自己意識の違い

http://nichigetu.b-tama.com/e_photo24.html

自己究明/視点による自己意識の違い

空の基本構造

今回の展示画像について説明します。前々回(「22. 鈴木大拙「華厳の研究」の研究」)の展示画像の一つである正六角形の内部に正六角形を六つ相即相入した自己相似集合図形では、その中央の部分に十分な空きが存在しています。 そこで今回は、この部分にもう一つ正六角形を追加して、合計七つの正六角形を相即相入したときの自己相似集合図形です。

このような図形を電脳で描かせるための考え方は、「5.リカーシブ(再帰的)処理という概念」で説明しています。これは対象を自分の外に置かないで、対象の中に自分を入れ込んでしまうような概念なのです。言い換えると、対象を自分から見る視点に置かないで、自分の内に自分を含む対象を見るような視点なのです。

もう少し具体的な例は、 前回話題にした、車に搭載されているアラウンドビューモニターです。今回はこの視点をさらに考察します。何らかのテレビの実況放送中、その画面が映っているテレビ受像機を、テレビ局のスタッフが実況しているテレビカメラで写したら、テレビ画面には何が映るのでしょう。普通に想像したら、画面にはテレビ受像機が映り、その受像機の画面には、また受像機が映り、・・・と、受像機がどんどん縮尺されて無限に映っていくのです。

これはまさに「入れ子構造」そのものです。この原理は自己相似集合図形を作成するのに応用でき、これを用いると今回の展示画像を描かせることなど朝飯前の仕事なのです。

すなわち、自分(見るもの)と対象(見られるもの)とが一体化したときの一つの様相が、自己相似集合図形なのです。一つと表現したのは、もっと不思議なことが起こるのですが、これはいっの日にか考察します。

「般若心経」の教え

前回の「23.「空」の基本構造」で取りあげた「般若心経」の最初の文の解釈では、「視点」に着目して、「視点の転換による済度」として考察しました。 このまとめを表1に示します。

表1.視点の違いによる自己意識の違い
自己から他者を含む世界を見る視点世界の上方(天空、宇宙、仏)から自己や他者が関わる世界を見る視点
「色」(分別と差別)の世界「空」(無分別と無差別(平等))の世界
主客二元的な対立が生まれる。
当然、自己中心的な執着、欲望、怒りなどの人間の苦の原因となる煩悩が芽生えます。
この苦を「度する」には、視点の転換が必要となります。
「主客不二・物我一如」の境地が生まれる。
大局から見れば、世界を構成する個々の人や物に対して、区別など付けようがなく、全く同等と見るのが基本となるのでしょう。
すなわち個々は世界を構成する仲間であり、そこに倫理観や慈悲の心が芽生えます。
この世界観を図で表現したのが「空」の基本構造です。

大局的立場あるいは仏の立場から見た視点からは、自己も他者も甲乙つけがたい同じ人間なのであって、すなわち相似形なのであって、そこには執着、欲望や怒りなどの煩悩は存在しないのです。これら煩悩は自己から他者を含む外界を見た視点のときにのみ生じるのです。この大局から見た視点からは、全体を構成する同じ人間だからこそ、お互い助け合って、切磋琢磨(せっさたくま)して、互いに自己を高めようとする「慈悲」の心が生まれるのです。私はこれが「空」の境地であろうと思います。「色」と「空」との違いは「視点」の違いだけなのです。

ただしこの大局的な立場の視点から見られるようになるには、かなりの修行を必要とします。これを実行するには、自己や他者が関与する世界を、自己の内部に映して(イメージして)、それを自己が見ることになるのでしょう。このとき、曇りや歪みを生じさせることなく映し込むために、それ相応の修行が必要なのです。もう少し具体的には、道元の言うとおりで、『仏道をならふといふは、・・・自己をわするるなり。・・・』なのです。

この世界観を図で表現したのが、「空」の基本構造としての自己相似集合図形なのです。

「空」の基本構造から導かれる世界

展示画像のような自己相似集合図形をどのように解釈するかの基本的な概念を表2に示します。

表2.「空」の基本構造としての自己相似集合図形

外側の輪郭とその内部内側に存在する各輪郭とその内部
基本概念全体
一般(普遍)
包括するもの
世界
全体の構成要素としての部分
特殊
包括されるもの
個物・自己及び他者
世界観世界の上方から見た視点としての自己や他者が関わる世界
世界(宇宙、仏、自然)と自己との一体化構造
- - -自己と他者との一体化構造

曼茶羅は宇宙(大日如来)と自己の一体化を感得するための手段として用いられるものですが、曼茶羅の構図の一つに自己相似集合図形に近いものが存在していることは、自己相似集合図形は、「空」の境地を得るための図形といえるのでしょう。

自己相似集合図形の内側に存在する相似形は、全体を構成する要素としての個を表していますが、個が変われば個の集まりとしての全体も同時に変化し、そしてこれによって全体を内包する各個も再度変化するのです。これを無限に繰り返すことで全体と個の間の「矛盾」は徐々に解消され、一体化していくのです。言い換えると、全体との関係においてそれぞれの個が存在し、個は他の個々との関係においてのみ成立する世界なのです。

一切の相似形は外形(輪郭)だけで、実体はないと考えることもでき、仮の集合とも考えられます。 または「有」でもなく「無」でもなく、どちらにも属さない「中(ニュートラル)」の状態ともとれます。

次に自己と他者に着目すると、自己の対象としての他者を含む外界は、自己と同じ相似形です。すなわち一切の対象は自己と同じ相であって、二元的対立の生じない、不二の世界です。このような一体化構造は、相互に無礙(むげ)の関係にあり、調和のとれた秩序が成立しています。 すなわち事事無礙法界の成立する世界でもあるのです。

「空」の基本構造とは、実体のない輪郭だけで形成され、二元的対立を克服するための全てが一体化した調和と秩序のある構造なのです。この一体化構造ゆえに全ての煩悩が滅せられると同時に、他者への慈悲の心を自覚できるのです。

相似形の大きさは何を意味するか

「華厳経の風景」での花の配置の典型は、一つの大きな花を中心にして、その周りに相似形の中くらいの花が秩序正しく配置され、さらにこの中くらいの花の周りに相似形の小さい花が配置されるという繰り返しの構造です。「華厳経における花の意味」で記述していますが、 花は仏や菩薩のおられる場所(座)を意味し、花の大きさは修行の成果(仏果)を表していると想定して、考察を進めてきました。

今回の展示画像のような自己相似集合図形の内部には、大きさの異なる相似形が多数存在しますが、これらを全体(世界)を構成する要素(個)と解釈するとき、この大きさは、 物の場合は「大きさ」、「規模」を意味し、人間の場合は「修行の完成度」、「智慧の量」や「人格としての水準の高さ」のようなことを意味するのでしょう。

大きさは量を表しますが、量的変化と質的変化は相互に転化しますので、質的変化と考えてもよいのです。

我々は少しでもより大きな自己になるために、日常的に努力し、精進しているのです。相似形の大きさは、これを意味するものと考えてよいと思われます。

「自己の究明」とは、今回の展示画像の自己相似集合図形の内部の一つの相似形を自己であると認識することなのです。

これでは世の中、面白くも、おかしくも、何ともなく、まさに機械の歯車の一つではないかと思われるかもしれません。ここで重要なことは、機械の歯車は寿命が尽きるまで、固定された状態が続くのですが、 人間の世の中では、その位置(立場)や大きさは、人間の努力や運しだいで変わり得るということです。修行によって、ひと回りもふた回りも大きく成長できるのです。

「「空」からの創造」のすばらしさ

「「空」の基本構造」で、「基本」と呼んだのは、この幾何学的な自己相似集合図形のような、構造が簡単で静的なもので、 仏教の世界観を誰でもが理解しやすい図形だからです。実際の「空」はより神秘的(難解)でもっと奥深いのです。

もうみなさまには御存知のように、このような簡単な幾何学図形ではなく、より創造的で動的な挙動を呈する「華厳経の風景」のような画像が存在するからです。このような画像がなぜ生み出されるかについては、私自身修行が足りず、いまだわかっていないのです。

これに関し、鈴木大拙の「空」からの創造についての記述が、きわめて印象的なのです。いままでも検討していますが、鈴木大拙の洞察力はすごいものがあり、未来を見越したような文章によく遭遇するのです。その一例が「11. 「空」からの「創造」/ 電脳三昧 」で引用した文章ですが、 決定論的カオスの挙動など知るよしもなかった当時、何故あのような文章が書けたのであろうか、私のような凡人には理解しがたいのです。

多少重複しますが、鈴木大拙の著作の中で私の最も好きな「仏教哲学における理性と直観」(鈴木大拙全集、第十二巻、(株)岩波書店、2000年9月)の最終の部分を引用させていただきます。

『・・・空は、静なるものとしてではなく、動なるものとして、いや、むしろ同時に静であり動であるものと考へられなければならない。般若の場は、止観を通じて創造し、創造を通じて止観するのだ。

こういうわけで、般若においては、永遠の進展があり、而も同時に決して変ずることのなき統一の情態があるのだ。・・・論理的にいえば、般若の創造性は限りない矛盾の連鎖を蔵するのだ。 ありとあらゆる形および仕組みにおいて、理性の中に般若が、般若の中に理性があるのだ。ここに般若と理性とが、無限に錯綜し、重重無尽に浸透しあう情態が生じてくる。・・・この最も徹底した相互浸透、 理性と般若とが表現することもできぬほど錯綜していながら而も秩序を維持しているというこの囘互(えご)の情態、これこそ般若自らの手で編んでいく網なのである。ここでは分別理性が主役となってはたらくのではない。それで般若直観のある所、このすべての神秘が不可思議を演ずるのだ。』

2008.8.18

華厳経エピソード編-鈴木大拙「華厳の研究」の研究

http://nichigetu.b-tama.com/e_photo22.html

鈴木大拙「華厳の研究」の研究

法界

漸化式(ぜんかしき)の意味

みなさん、f(f(x))の意味がおわかりですか。

高校の数学で、2つの変数xとyの間に何らかの関係があって、xの値が定まれば、これに応じてyの値が定まるとき、yを「xの関数」といい、y=f(x)と表わします。ここでf( )は、いわば何らかのfunction(機能、作用)が与えられる容器のようなもので、このカッコの中にxを入れ込むと、yになれるのです。

これはまさに「相即相入」の概念によく似ていいると思われないでしょうか。 ここで、f( )にf(x)を入れたf(f(x))は、「「xの関数」の関数」ということになります。 さらにこれを無限に「反復・繰り返し」を行うと、・・・f(f(f(f(x))))・・・、すなわちxの関数の関数の関数の・・・ということになります。 ただこの様に表現すると、わかりにくくなるので、変数Xに下付きの添字を付けて、X0, X1, X2, X3, ・・・Xn, Xn+1とします。ここで最初のXをX0とし、次のX1をf(X0)と表わしています。

すなわちX1=f(X0)、X2=f(X1)=f(f(X0))となります。したがって、

X3=f(X2)=f(f(X1))=f(f(f(X0)))です。これを一般的に表現したのが、

Xn+1=f(Xn

この式は今までに何度も登場してきた漸化式の基本形です。

Xn+1=f(Xn

=f(f(Xn-1))=f(f(f(Xn-2)))=・・・

=・・・f(f(f(X0)))・・・

すなわちXn+1は、Xn, Xn-1, Xn-2,・・・X0がそれぞれ「相即相入」していることになり、それぞれ一体化して、今ここにおいてXn+1として成り立っていることを意味します。そしてこの漸化式は、まさに「関数f( )の入れ子構造」であり、「相即相入」を何度も「反復・繰り返し」たときの結果を示すものなのです。

すでに「相即相入/事事無礙(じじむげ)」で検討しましたように、基本的な自己相似集合図形の作り方は、この「相即相入」を何度も「反復・繰り返し」することでした。今回の展示画像も全く同様の方法で作られたものです。

今回の題目でもあります「鈴木大拙「華厳の研究」の研究」は、厳密には正確ではありません。正確には「華厳の研究」の研究の研究の・・・なのです。

すなわち最初に鈴木大拙「華厳の研究」を研究した大先輩がこの影響を受けて、新たな論説を生み出し、それを中先輩が受け、再度考察し、さらに小先輩が再度考察した結果が私の知識となり、これを基礎として「華厳の研究」を再度考察する訳です。この「反復・繰り返し」によって、すなわち多くの人が一体化することで、物事が徐々に変化していくのです。これを「漸化」というのでしょう。また生物の「進化」と考えてもよいと思います。

鈴木大拙「華厳の研究」

鈴木大拙全集、第五巻((株)岩波書店、2000年5月)の「華厳の研究」の第二篇の「華厳経に於ける場面の全面的転廻」で次のように記述しています。

『「華厳経」に来ると大乗仏教という大宗教劇の演じられる舞台面に完全な変化がある。・・・目にうつるあらゆるものが、すべて皆、たぐいのない光に輝きいでるからだ。われわれはもはや、暗い、硬い、そして限りのあるこの地上の世界に居るのではない、 不可思議にも身は運ばれて天上の銀河の間に上る。この天上の世界は光明そのものである。・・

・・この光明の世界、この相即相入の場面は、個物の世界である世間界との対照に於て、法界として知られている。・・・法界は真実の存在であって世間界から離れたものではないが、ただわれわれが菩薩の生きている霊的生活にまで至らないと法界と世間界とが全く同一だということにはならぬ。個の堅い外郭が溶け去り、有限性の感じがもうわれわれを悩ますことがなくなった時に始めて法界は実現する。この様な法界に入ることを説くものという意味で、「華厳経」はまた「入法界品」ともよばれるのである。』

大乗仏教の経典の中でも、華厳経は人間の思想を全く超えた不可思議な光景であると、大拙は記述していると同時に、これを極力理解するために、「法界」や「相即相入」という教義を詳細に記述しています。そして「相即相入の教義」の中で次のようにも記述しています。

『多くの人々にはそれらは余りにも空想的なものであるかの様に、また余りにも遠く常識の領域を越えているものであるかの様に見える。しかし、われわれが経に叙述せられた通りに菩薩の霊性的経験の中心事実を把握すれば、ここに画き出されるすべての光景が全く当然なものであるという考えがおこり、それらの中にもはや何の非合理性も見ないということになるであろう。』

この後の文章から「菩薩の霊性的経験の中心事実」というのは「相即相入」を直覚することなのですが、これを把握すれば、華厳の世界の光景は当然なものであると記述しています。これは私にとってきわめて重要なことで、次項で検討しますが、「華厳経の風景」に「お墨付」をいただいたようなものなのです。

さらにこの後の文章で、唐の則天武后が相即相入の意を把握するのに困難を感じた時に、華厳の碩学(せきがく、学問のひろく深い人の意)法蔵が、提示し説明した「燈火を鏡で囲った光の多重反射のたとえ」について記述しています。これはすでに「「重重無尽」が行き着く世界」で検討したので省略しますが、大拙のいう華厳経の舞台の光明の世界とは、この燈火を鏡で囲った光の多重反射の様相を意味しているのでしょう。

当時、鈴木大拙は「フラクタル」の概念など知る由しもないのですが、法蔵と同様、直覚で理解していたと考えられます。

なお以後の考察は「10.自己相似集合であることの証明」での考察と一部重複します。

外から見た大楼閣と内から見た大楼閣

いよいよクライマックスの第三篇に入ります。まず本論に入る前に今回の展示画像について少し考察します。ところで臨済宗妙心寺派の禅僧、仙崖義梵(せんがいぎぼん, 1750-1837)和尚が描いたという禅画「○△□」は、多くの方が見たことがあると思いますが、この究極の意味がおわかりでしょうか。

これについて、 私なりにイメージしたのが、今回の展示画像なのです。ただし円については、すでに「相即相入/事事無礙」や「9.自己相似集合の世界観」で展示していますので、ここでは省略します。その代わりに正三角形や正四角形のほか、さらに欲張って、正五角形と正六角形も描いてしまいました。このへんが私が凡人の域から抜け出られないところです。 さらに語呂がよいので、三角形は三つの三角形、四角形には四つ、五角形には五つ、六角形には六つのそれぞれの形を、互いに妨げあわないように「相即相入」を繰り返したものです。

電脳で描いていますので、相即相入を無限に繰り返すことができますが、内部が黒く塗りつぶされて、きたなくなりますので、 適当な反復回数でとどめています。これらの図形がどのように描かれるかを、 わかりやすく説明するために、 三角形と四角形について、反復回数一回の場合と二回の場合を下図に示します。

法界2

特に三角形の中に三つの三角形を繰り返し入れ込んだパターンは有名で、シェルピンスキー(ポーランドの数学者,1882-1969)のガスケット(ガスの漏れを防ぐパッキング)と呼ばれるもので、 自己相似集合の教材として、よく用いられる形です。

さて話を本論に戻しますが、「楼閣の描写」について、 鈴木大拙の記述を要約すると、楼閣は法界であること。 この法界の個多のものは完全な秩序が存すること。この秩序とは、『大楼閣の中には、また無量無数百千の楼閣がある。 その一々の楼閣がまた大楼閣そのものと同じ様にいみじく妙なる荘厳に飾られ、また空虚の如く広闊(こうかつ)である。しかしてまた、これらのすべての、その数、無量無数の楼閣は相互に障礙(しょうげ)するところさらになく、一々の楼閣はすべての諸処(しょしょ)の他の楼閣と完全に調和しつつしかもそれ自体の存在を保っている、一楼閣が他の楼閣と個々にまた全体的に融合することを妨げる何物もなく、そこには完全な相互交入があり、しかも完全な正整がある。若き求道者善財は自らを一々の楼閣の中に見ると共にまたすべての楼閣の中にも見るのである。すべては一々の中に含まれ、一々はすべてを含むからである。』

この鈴木大拙の記述と、展示画像のような自己相似集合との対応を考えるときに、もう一つの重要な概念を導入することが必要なのです。

それは西田幾多郎や鈴木大拙の思想の中心となる「真の自己とは何か」という概念です。 これも仏教思想に根ざしたものといわれていますが、自己と他者、およびその周囲環境(この場合は楼閣)が自己の内側に存在する世界、すなわちこれらが全て同一と直覚する境地を導入します。これで展示画像のような調和のとれた自己相似集合図形は、 まさに鈴木大拙の楼閣についての記述内容と完全に一致し、事事無礙法界と解釈できます。

以上自己相似集合は、 西田、鈴木の「自己究明」の概念を導入することで、 単なる幾何学図形から、 仏教思想の理想的な世界観を表現する図形へと生まれ変わるのです。そしてこれが善財童子が大楼閣の内部に入って(入法界)、直覚した大楼閣そのものであり、また「事事無礙法界」の構造であると考えられます。

そしてこの自己相似集合図形は、「相即相入」を反復・繰り返すことで作られるのでした。

この事事無礙法界の構造と考えられる自己相似集合は、「相即相入/ 事事無礙」ですでに考察をしていますが、 このような図形の原形は、 自己相似集合やフラクタルなどの概念が生まれるはるか以前、八世紀頃に、 金剛界曼茶羅として仏教界に存在していたことは、 みなさまには御存知のことと思います。

代表的な胎蔵・金剛界曼陀羅の図を見れば容易に理解できるように、大日如来を中心とした諸尊の集まりの場所であって、諸尊の大楼閣を象徴した図と考えるのが、もっとも素直で基本なのでしょう。この図に自己相似集合に近いものが存在することは、大楼閣の内部が自己相似集合であることを物語るものと考えられます。

また曼陀羅を構成する図形も、主に円や正方形で、これも楼閣やその城郭(じょうかく)を表しているのでしょう。また三角形も存在するといわれており、仙崖和尚の禅画「○△□」が頭をよぎり、これが楼閣を表している可能性もあります。

さて先に引用した鈴木大拙の記述、『法界(この場合は事事無礙法界と考えられます)は真実の存在であって世間界から離れたものではないが、ただわれわれが菩薩の生きている霊的生活にまで到らないと、法界と世間界とが全く同一だということにはならぬ。』とか『相即相入を直覚し、把握すれば華厳の世界の光景は当然なものである』という意味は、 相即相入から導かれる自己相似集合のような構造をいうのでしょう。さらにこのことに関して、 大変興味深い発見がありました。

大楼閣を内側から見た平面図は、 展示画像のような構造と考えられるのですが、ここで四角形の場合を注目しましょう。四角形に四つの四角形を相即相入した場合の配置図は、田の字構造なのです。

「不可思議神変事」といわれる大楼閣といえども、 我々凡人の住宅の室の配置の基本といえる田の字構造と何ら変わりがないのです。我々は各室を有効に利用するため、 室の空間を幾重にも細かく区切って、 そこに物を相即相入して、 収納庫として用いているのです。

田の字の個々の四角の中に、また田の字が入り、またその個々の四角に田の字が入るという繰り返しなのです。 これが大楼閣の内部の構造なのです。

最後に、 仙崖和尚が描いたという禅画「○△□」の究極の意味は、 外から見た大楼閣の平面図に他ならず、この外面的な○△□の図形の内側には 「相即相入」とか「重重無尽」や「事事無礙法界」などの華厳思想の核心が、 隠されていると直観したのですが、如何でしょう。

2008.6.9

華厳経エピソード編-三年間の「華厳経の風景」回想

http://nichigetu.b-tama.com/e_photo21.html

華厳の世界の基本構造

「華厳経における花の意味」の「追記」で述べたように、華厳の世界すなわち蓮華蔵荘厳世界(れんげぞうそうごんせかい)を構成する大蓮華は、 幾重もの「風輪」によって支えられていると言われています。この風輪は風の渦のことで、この流体の渦は、普通「対数螺旋(らせん)」であると考えられます。

この対数螺旋は、「「重重無尽」が行き着く世界」で提示した佐藤修一の「自然にひそむ数学」にも記されているように、「黄金比」・「フィボナッチ数列」や「フラクタル」と密接な関係があり、これらは自然の基本的な法則そのものなのです。すなわち天才的な先駆者達が、 自然とまじめに向かい合ったときに、直観的に感知される仕組み(構造)なのです。

この「風輪」を幾重にも重ねると、下図のように、華厳の世界の基本構造が明らかになります。


この渦(対数螺旋)は、一種の「入れ子構造」であり、フラクタル(自己相似集合)の基本です。そしてこの渦を幾重にも重ねるのですが、 このとき渦の回転方向、すなわち時計回りと反時計回りの渦を別々に扱い、それぞれの渦を均等(等角度)に配置してして、この回転方向の異なる二つの渦群を重ね合わせます。

例えば三本の渦を用いて、回転方向を異にした二つの渦群を重ねると、図の中央のような花びらが形成できます。これはバラの花のような感じですが、対数螺旋の数やその形を変えるパラメータを変えれば、もっと単純な蓮の花のような花びらも形成できます。

さらに十五本の渦を用いますと、図の右側のような画像が得られ、これはまさに網の目構造です。

以上、 華厳の世界の象徴的な表現としての花や、 華厳の世界の思想的表現としての、全体(世界)と部分(自己)との関係を具体的に表した網目構造が形成されるのです。そしてこれらは全てフラクタルなのです。


西夏文字による華厳経

華厳経』(けごんぎょう、Avataṃsaka Sūtraアヴァタンサカ・スートラ)、正式名称『大方広仏華厳経』(だいほうこうぶつけごんきょう、Mahā-vaipulya-buddha-avataṃsaka Sūtraマハー・ヴァイプリヤ・ブッダ・アヴァタンサカ・スートラ)は、大乗仏教経典の1つ。

経名は「大方広仏の、華で飾られた(アヴァタンサカ)教え」の意。「大方広仏」、つまり時間も空間も超越した絶対的な存在としての仏という存在について説いた経典である。

元来は『雑華経』(ぞうけきょう、Gaṇḍavyūha Sūtraガンダヴィユーハ・スートラ[1])、すなわち「様々な華で飾られた・荘厳された(ガンダヴィユーハ)教え」とも呼ばれていた[2]

目次

沿革編集

華厳経は、インドで伝えられてきた様々な経典が、4世紀頃に中央アジア(西域)でまとめられたものであると推定されている[3]。 華厳経全体のサンスクリット語原典は未発見であるが、「十地品」「入法界品」などは独立したサンスクリット経典があり現代語訳されている。

漢訳完本として、

がある。

部分訳としては、

  • 支婁迦讖訳 『仏説兜沙経』(大正蔵280) - 「如来名号品」「光明覚品」
  • 支謙訳 『仏説菩薩本業経』(大正蔵281) - 「十住品」
  • 聶道真訳 『諸菩薩求仏本業経』(大正蔵282) - 「十住品」
  • 竺法護訳 『菩薩十住行道品』(大正蔵283) - 「十住品」
  • 祇多蜜訳 『仏説菩薩十住経』(大正蔵284) - 「十住品」
  • 竺法護訳 『漸備一切智徳経』(大正蔵285) - 「十地品
  • 鳩摩羅什訳 『十住経』(大正蔵286) - 「十地品」
  • 尸羅達摩訳 『仏説十地経』(大正蔵287) - 「十地品」
  • 竺法護訳 『等目菩薩所問三昧経』(大正蔵288) - 「十定品」
  • 玄奘訳 『顕無辺仏土功徳経』(大正蔵289) - 「寿明品」(六十華厳)・「如来寿量品」(八十華厳)
  • 法顕訳 『仏説較量一切仏刹功徳経』(大正蔵290) - 「寿明品」(六十華厳)・「如来寿量品」(八十華厳)
  • 竺法護訳 『仏説如来興顕経』(大正蔵291) - 「性起品」
  • 竺法護訳 『度世品経』(大正蔵292) - 「離世間品」
  • 般若三蔵訳 『大方広仏華厳経入不思議解脱境界普賢行願品』(「四十華厳」、大正蔵293) - 「入法界品
  • 聖堅訳 『仏説羅摩伽経』(大正蔵294) - 「入法界品」
  • 地婆訶羅訳 『大方広仏華厳経入法界品』(大正蔵295) - 「入法界品」
  • 仏駄跋陀羅訳 『文殊師利発願経』(大正蔵296) - 「入法界品(末尾)」
  • 不空訳 『普賢菩薩行願讃』(大正蔵297) - 「入法界品(末尾)」

等がある。

また、チベット語訳完本も存在し、チベット大蔵経の「カンギュル」(律・経蔵)の主要な一角を占めている。

中国では華厳経に依拠して地論宗華厳宗が生まれ、特に華厳宗は雄大な重重無尽の縁起を中心とする独特の思想体系を築き、日本仏教史にも大きな展開を起こした。

上代日本へは、大陸より審祥が華厳宗を伝来し、東大寺で「探玄記」による「六十華厳」の講義を3年間に及び行なった。東大寺は今日まで華厳宗大本山である。

ネパールでは『十地経』と『入法界品』(Gaṇḍavyūha)がそれぞれ独立の経典として九法宝典(Navagrantha)に数えられている[4]

構成編集

六十華厳経八十華厳経
  • 第一会 寂滅道場会
    • 1 世間浄眼品
    • 2 盧遮那仏品
  • 第二会 普光法堂会
    • 3 如来名号品
    • 4 四諦品
    • 5 如来光明覚品
    • 6 菩薩妙難品
    • 7 浄行品
    • 8 賢首菩薩品
  • 第三会 忉利天宮会
    • 9 仏昇須弥頂品
    • 10 菩薩雲集妙勝殿上説偈品
    • 11 菩薩十住品
    • 12 梵行品
    • 13 初発心菩薩功徳品
    • 14 明法品
  • 第四会 夜摩天宮会
    • 15 仏昇夜摩天宮自在品
    • 16 夜摩天宮菩薩偈品
    • 17 功徳華聚菩薩十行品
    • 18 菩薩十無尽蔵品
  • 第五会 兜率天宮会
    • 19 如来昇兜率天宮一切宝殿品
    • 20 兜率天宮菩薩雲集讃仏品
    • 21 金剛幢菩薩回向品
  • 第六会 他化自在天宮会
    • 22 十地品
    • 23 十明品
    • 24 十忍品
    • 25 心王菩薩問阿僧祇品
    • 26 寿明品
    • 27 菩薩住処品
    • 28 仏不思議法品
    • 29 如来相海品
    • 30 仏小相光明功徳品
    • 31 普賢菩薩行品
    • 32 宝王如来性起品
  • 第七会 普光法堂会
    • 33 離世間品
  • 第八会 逝多林会
  • 第一会 菩提場会
    • 1 世主妙厳品
    • 2 如来現相品
    • 3 普賢三昧品
    • 4 世界成就品
    • 5 華蔵世界品
    • 6 毘盧遮那品
  • 第二会 普光法堂会
    • 7 如来名号品
    • 8 四聖諦品
    • 9 光明覚品
    • 10 菩薩門明品
    • 11 浄行品
    • 12 賢首品
  • 第三会 忉利天宮会
    • 13 昇須弥山頂品
    • 14 須弥頂上偈讃品
    • 15 十住品
    • 16 梵行品
    • 17 初発心功徳品
    • 18 明法品
  • 第四会 夜摩天宮会
    • 19 昇夜摩天宮品
    • 20 夜摩宮中偈讃品
    • 21 十行品
    • 22 十無尽蔵品
  • 第五会 兜率天宮会
    • 23 昇兜率天宮品
    • 24 兜率宮中偈讃品
    • 25 十回向品
  • 第六会 他化自在天宮会
  • 第七会 重会普光法堂会
    • 27 十定品
    • 28 十通品
    • 29 十忍品
    • 30 阿僧祇品
    • 31 如来寿量品
    • 32 諸菩薩住処品
    • 33 仏不思議法品
    • 34 如来十身相海品
    • 35 如来随好光明功徳品
    • 36 普賢行品
    • 37 如来出現品(性起品)
  • 第八会 三会普光法堂会
    • 38 離世間品
  • 第九会 逝多園林会

内容編集

智顗の見解では、この経典釈迦の悟りの内容を示しているといい、「ヴァイローチャナ・ブッダ」という仏が本尊として示されている。「ヴァイローチャナ・ブッダ」を、「太陽の輝きの仏」と訳し、「毘盧舎那仏」と音写される。毘盧舎那仏は、真言宗の本尊たる大日如来と同一の仏である。

華厳経にも、如来蔵思想につながる発想が展開されている[5]

陽光である毘盧舎那仏の智彗の光は、すべての衆生を照らして衆生は光に満ち、同時に毘盧舎那仏の宇宙は衆生で満たされている。これを「一即一切・一切即一」とあらわし、「あらゆるものは無縁の関係性(縁)によって成り立っている」ことで、これを法界縁起と呼ぶ。

「六十華厳」の中で特に重要なのは、最も古層に属する「十地品」[6]と「入法界品」の章とされている。

  • 「十地品」には、菩薩が踏み行なうべき十段階の修行が示されていて、そのうち六番目までは自利の修行が説かれ、七番目から十番目までが利他行が説かれている。
  • 「入法界品」には、善財童子(ぜんざいどうじ)という少年が、人生を知り尽くした53人の人々を訪ねて、悟りへの道を追究する物語[7]が述べられている。

隋の智顗は五時八教の教相判釈で、華厳経を釈迦が成道後まもなく悟りの内容を分かり易くせずにそのまま説いた経典で粗削りの教えであるとした。 唐の法蔵は『華厳五教章』において、五教十宗判の教相判釈を行い、華厳の教えを最高としている。

邦訳編集

全訳編集

抜粋訳・編訳編集

ドイツ語訳編集

全訳編集

  • 土井虎賀寿訳 DAS KEGON SUTRA 東大寺の委嘱により漢訳からの重訳(全4巻)独訳華厳経刊行会1983年 c/o土井 佐保

関連文献編集

  • 鎌田茂雄訳著 『華厳五教章』 <佛典講座28>大蔵出版、1979年、新装版2003年 
  • 木村清孝訳注 『華厳五教章』 <大乗仏典 中国・日本篇7>中央公論社、1989年。他に小林円照訳注『原人論』を収録、現代語訳
  • 木村清孝・吉田叡禮校註 『新国訳大蔵経 中国撰述部 華厳五教章 金師子章 法界玄鏡』 大蔵出版、2011年
  • 土井虎賀寿、Die Einfuehrung in das Kegon Sutra 上記の独訳華厳経第4巻に収蔵

脚注・出典編集

  1. ^ 『ガンダヴィユーハ・スートラ』(Gaṇḍavyūha Sūtra)は、「入法界品」のサンスクリット原題でもある。
  2. ^ 『華厳の思想』 鎌田茂雄 講談社学術文庫 p44
  3. ^ 華厳経 - ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
  4. ^ CiNii 論文 - 金光明経の教学史的展開について14頁
  5. ^ 「華厳経如来性起品」を参照(『大乗仏典12 如来蔵系経典』に収録。高崎直道訳注、中央公論社のち中公文庫)
  6. ^ 十地品の成立年代は、紀元1世紀から2世紀頃とされる。『仏典解題事典 第二版』(春秋社、1977年)や、『大蔵経全解説大事典』(雄山閣出版、1998年)を参照
  7. ^ 絵巻の関連出版は『華厳五十五所絵巻』がある。『続日本の絵巻.7』(小松茂美編、中央公論社、1990年)や、『新修日本絵巻物全集.25』(田中一松編、角川書店、1979年)を参照。

関連項目編集



1 仏陀の宇宙を語る 東洋大学 竹村牧男教授による。
 (1) 華厳経は、
   『華厳経』には、漢訳としてまとまったものが二つある。






 北インド出身の佛駄跋駄羅(Buddhabhadra)359~429年が五世紀の初めに訳したもの。

 → 「六十華厳」:九十九偈伴の詩句より成る。

  注:中村元の著書”『華厳経』『楞伽経』”で、氏は、「418年から420年に漢訳されましたから、原本は四世紀にはまとまっていたはずです。」という。
        
 中央アジア・コータン出身の実叉難陀(siksanandaじっしゃなんだ)652~710年が、7世紀の終わりに訳したものである。

 → 「八十華厳」:六十二の詩句で構成されている。


   我が国では、奈良の東大寺(華厳宗)が中心となっている。  ☆ 西暦750年 良弁聖人
752年 東大寺(良弁僧正が開山。華厳経の教主とされる。本尊は、毘留遮那仏びるしゃなぶつ。)この年に大仏開眼供養された。儀式の導師となったのは、インド人僧

侶(バラモン出身の菩提僊那せんな)であった。
参考:
 この年、第12回遣唐使を派遣。(894年第20回目が中止になるまで遣唐使は続けられた)。
                        


厳経

 釈尊のお悟りの世界をそのまま描いた経典。漢訳で、80巻。唯識など大乗仏教のすべてを包含している。

 西暦421年に、中国で翻訳された。 後に華厳宗となり、宝蔵大師がこれを広めた。

 終半の、40巻は:「入法界品」・・・善財童子(ざいぜんどうし)が、53人の師を訪ねての遍歴の物語である。

                           ・・・・・・文殊(もんじゅ)菩薩の励ましを受けて53人の師匠を訪ねる話

 「その53人とは、文殊菩薩をはじめとする優れた菩薩たちだけではなく、比丘(びく)、比丘尼、すなわち」修行僧や女僧、あるいは少年

少女,医師、長者、金持ち、商人、それから船子(船を動かす人)、神々、仙人、外道(げどう)すなわち仏教外の人までいるのです。

 またバラモン、さらに遊女までも含まれています。道を求める心の前には、階級や職業の区別もない、宗教のちがいも問わないという、

ひじょうに崇高な立場に基づいています。」 
                     ・・・・・・・・・ 中村 元(はじめ)  「現代語訳 大乗仏典 5 『華厳経』『楞伽経』 より
 ブッダアバタンサカ=仏がいっぱい=花がいっぱい→仏の中にすべての宇宙の現象を解け込ませている。・・・・万物が繋がり合って

いるという教え。
          「一即一切・一切即一」 → 「重々無尽(じゅうじゅうむじん)」
   
  <一つのものはそのまま一切のものと関連しており、

                一切のものがそのまま一つ一つの命と結びついている。>
                       ↓
            <すべてが関連しあって存在し、その繋がりは尽きることはない。>    管理人意訳
           

   現在は、人と自然・人と人の関係性が薄れてきている。人工的な環境の中で生きる。

   (思えば、ヒトは生物の一員でありながら、特別な”生物圏”を作って、異常増殖中だ !!=苦縁讃:管理人) 

 
(2) 華厳経の教えとはどのようなものか?

一つの毛穴(けあな)のなかに、   

無量のほとけの国土が、

装(よそお)いきよらかに、

広びろとして安住する。

      ・・・

一つの微塵(みじん)のなかに、    

あらゆる微塵(みじん)のかずに等しい微細の国土が、

ことごとく住している。 

あらゆる世界に種々のかたちあるを、

仏ことごとくその中において、

尊ときおしえを説きたまう。

  これぞ弘誓(ぐぜい)の願い、

自在のちからであって、

一(いち)いちの微塵のなかに、

あらゆる国土をあらわしたまう。

                          ・・・ 華厳経


一(いち)いちの毛穴のうちに、          

あまねく如来海を示現(じげん)し、

         ほとけは如来の塵にいまして、       
 
           菩薩衆に囲繞(いにょう)せられたまう。

一(いち)いちの毛穴のうちに、         

無量の諸仏海がおわし、

   ぞれ道場の華座(けざ)に坐して、

         淨妙(じょうみょう)の法輪を転じたまう。

一(いち)いちの毛穴のうちに、         

                あらゆる国土の 微塵数にひとしい仏が                    
        結跏趺坐(けっかふざ)して普賢(ふげん)の行を演説したまう。

                            ・・・ 華厳経
                     

あわ雪の  中に立てたる 三千大千(みちおおち) 
また その中に あわ雪ぞふる
                              ・・・ 良寛



参考:

1300夜『法華経』梵漢和対照・現代語訳|松岡正剛の千夜千冊

http://1000ya.isis.ne.jp/1300.html

 法華経は28品で構成されている。品は「ほん」と読む。ただし28品であることにはそれほどの意味がない。あれこれ書き換えや着替えをして入念に仕上げてみたらこうなったというものだ。
 次のようになっている。ふつうは「序品第一」「方便品第二」「薬草喩品第五」というふうに示すのが日本の仏教学の慣習になってはいるが、上記でもそうしてきたように、わかりやすく算用数字をあてた。
 1「序品」、2「方便品」、3「譬喩品」、4「信解品」、5「薬草喩品」、6「授記品」、7「化城喩品」、8「五百弟子受記品」、9「授学無学人記品」、10「法師品」、11「見宝塔品」、12「提婆達多品」、13「勧持品」、14「安楽行品」、15「従地湧出品」、16「如来寿量品」、17「分別功徳品」、18「随喜功徳品」、19「法師功徳品」、20「常不軽菩薩品」、21「如来神力品」、22「嘱累品」、23「薬王菩薩本事品」、24「妙音菩薩品」、25「観世音菩薩普門品」、26「陀羅尼品」、27「妙荘厳王本事品」、28「普賢菩薩観発品」。
 この構成が大きくは前半と後半に巧みに分かれるのである。前半の1~14品までを「迹門」(しゃくもん)、後半の15「従地湧出品」からを「本門」(ほんもん)というのだが、ここに法華経の最も特徴的な構造があらわれる。図解をすると次のようになる。

法華経の構成

 図で示してあるように、このうちの前半が「迹門」、後半が「本門」だ。そのほかいろいろ複雑な“幅タグ”がついているけれど、いまはこれらの区分けは無視しておかれたい。大事なことは全体が15「従地湧出品」のところで劇的に分かれるようになっているということだ。そのため16「如来寿量品」からが後半の本論になる。ブッダ存在学になる。
 こうすることによって、前半の迹門で説いたブッダは歴史的現実のブッダだが、後半の本門のブッダは理念的永遠のブッダだというふうになった。そこがまことにうまくできている。これがもし詭弁的構成でないのなら、まさに超並列処理というものだ。
 ぼくはこの絶妙を知ったときには、心底、感嘆した。キリスト教がマリアの処女懐胎やイエスの復活を説いたことには、たとえその後の三位一体論などの理論形成がいかに精緻であろうと、どうにも釈然としないところがのこるのだが、このブッダの歴史性と永遠性を“意図のカーソル”によって跨いだところには、それをはるかに勝るものがある。なにより、語り手のブッダが聞き手の菩薩たちにこのことを自身で説いているというドラマトゥルギーとしての根性がいい。
 いったい誰がこういう文巻テキスト編集作業ができたのか。もはやその当初の着手者の名はのこらないけれど、おそらくは当初の文巻というものが下敷きになって、そこに多くの“加上”と“充填”が加わっていったにちがいない。

仏は霊山浄土にて 浄土も変へず身も変へず
始めも遠く終はりなし されども皆これ法華なり

 こうして、菩薩行の本来とブッダの永遠の性格を説明する後半は「本門」に集中させることができ、それにあたって使われる方便は前半部の「迹門」でも存分にアイドリングしておけるようになったわけである。
 その前半のアイドリングを示す恰好なところはいくつもあるのだが、そのひとつ、ふたつを示しておきたい。
 4「信解品」に、仏弟子たちが“あること”を告白している注目すべき一節がある。仏弟子たちが、私たちは世尊が説いた教理をすべて「空・無相・無願」というふうにあらわしてきが、私たちは耄碌したのかもしれない。そう言っている一節だ。

四人の仏弟子がブッダを前に懺悔し、礼拝する図
(「法華経曼荼羅」第四軸 信解品)

 この仏弟子たちというのは小乗の教徒たちである。「空・無相・無願」というのは、悟りにいたる三つの門のことを、すなわち「三解脱門」をさす。三つの門はのちに寺院の「三門」(山門)に擬せられたものでもあるが、無限定・無形相・無作為にいたることをいう。ところが、これを小乗教徒たちがどうやら虚無的に理解したらしい。だから耄碌したのかもしれないなどと自分たちのことをニヒルに語った(法華経の編者がわざとそう語らせた)。“あること”の告白とはこのことだ。
 そこでブッダは有名な「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の喩え」をもって、窮子たる小乗的ニヒリズムの徒たちの迷妄を解き、大乗の可能性をひらく。この一節は、そのような小乗から大乗へのメタファーによる転換を示している。
 つまり法華経の編者たちは、ブッダの教えが声聞・縁覚にとどまる小乗教徒(部派仏教徒)によって曲解されていることをもって、これを新たな展開の契機にもっていきたかったのである。ただしその説明はすこぶるメタフォリカルだった。そのことが4「信解品」の書きっぷりに浸み出したのだ。

屋敷で働く窮子(貧しい子)に、長者が全財産を贈与するという喩話

 またたとえば、2「方便品」には、舎利弗が3回にわたってブッダに説法を願う場面がある。それに応じてブッダは説法を始めようとするのだが(三止三請)、そのときちょっと意外な場面になっていく。5000人の出家者・在家者がその場から一斉に立ち去ってしまったのだ。これから始まる法華経的説法を聞こうとしない。いったい「5000人の退席」(五千起去)とは何なのか。最高のブッダにおいて、どうしてそんなことがおこるのか。
 大乗仏教の真髄に向かえそうもない連中の、その増上慢をあらかじめ戒めたというのがフツーの解釈だ。しかしもう少し深読みすると、法華経を侮ってはいけない、わかったつもりで聞くのなら、文脈から去りなさい。編者たちはそう言っておきたかったのだ。それにしてもわざわざ5000人もの退席を見せておくというのは、なんとも大胆な演出だった。

真理は語ることができないとして
説法を拒否したブッダ

 法華経にはこういうふうに、「引き算」から入る文脈が少なくない。そのうえで「足し算」をする。引けばどうなるかというと、アタマの中に空席ができる。そこへ新たなイメージの束を入れるのだ。そういうことを随所で巧みにやっている。イメージの束だから、ついついメタフォリカルになるけれども、それを怠らない。これは法華経に一貫した際立つ特徴なのである。
 それゆえ、ここは肝腎なところになるのだが、完成した法華経を読みこんでみると、方便や比喩はたんなるレトリックではなかったことがしだいにわかってくる。方便やレトリックによって聞き手に空席や空隙をつくり、そこに新しい文脈の余地を立ち上げること、それこそが法華経にひそむ根底の“方法の思想”だとも言えたのである。
 だからこそ法華経は前半部でこそ声聞や縁覚の「二乗作仏」(にじょうさぶつ)を説くのだが、後半部では「久遠実成」(くおんじつじょう)を説いて、これをメビウスの輪のごとくに統合してみせられたのだ。

釈迦の御法(みのり)は唯一つ 一味の雨にぞ似たりける
三草二木は品々に 花咲き実なるぞあはれなる

 さて、まとめていえば、法華経の外観はよくできた物語だった。ドラマ仕立てのスペースオペラなのだ。場面も移っていくし、登場人物も多い。『レッドクリフ』の比ではない。だからまさに物語になっているのだが、そこには別々にできあがったエピソードやプロットをできるかぎり一貫したスクリプトのなかに収めようとしているのが、よく見える。つまり編集の苦労のアトがよく見える。
 そのことを説明するには、ここで1「序品」→2「方便品」→3「譬喩品」というふうに、1章ずつの内容をかいつまむべきだろうけれど、今夜はよくある法華経入門書のようにそれを踏襲することはやめておく。そのかわり、最も構成が絶妙なところだけをあらためて指摘する。
 法華経には昔から、好んで「一品二半」(いっぽんにはん)といわれてきた特別な蝶番(ちょうつがい)がはたらいている。15「従地湧出品」の後半部分から16「如来寿量品」と17「分別功徳品」の前半部分までをひとくくりにして、あえて「一品二半」とみなすのだ。その蝶番によって、前半の「迹門」と後半の「本門」が屏風合わせのようになっていく。そのきっかけが、これまで述べてきた大勢の「地湧の菩薩」たちの出現だった。
 つまりこの「一品二半」の蝶番には、前半の「二乗作仏」の説明を後半の「菩薩行」の勧めに切り替えるデバイスがひそんでいたわけである。そのため、ここで自力と他力が重なっていく。現実的な迹仏(しゃくぶつ)と理想的な本物(ほんぶつ)が重なっていく。その重なりをおこす蝶番が、ここに姿をあらわすわけなのである。地涌の菩薩はそのためのバウンダリー・コンディション(境界条件)だったのだ。
 この蝶番の機能のことを法華経学では「開近顕遠」(かいこんけんのん)、「開迹顕本」(かいしゃくけんぽん)、「開権顕実」(かいこんけんじつ)などという。近くを開いて遠きを顕わし、形になった迹仏から見えない本仏を見通し、方便とおぼしい例の教えから真実の教えを導く、ということだ。
ともかくもこのように、法華経はなんとも用意周到に編集構成されていた経典だったのである。やっぱりハイパーテキストだったのだ。なぜそうなったかといえば、理由は明白だ。そもそも大乗仏教のムーブメントは西暦前後に萌芽したものだけれど、法華経はまさにそのムーブメントの渦中においてそのコンストラクションを編集的に体現したからだった。
 それをあらためて思想的に一言でいえば、次のようになろう。ブッダが空じた「空」というものを、ブッダが示した世界との相互関係である「縁起」としてどのようにうけとめるか、それを法華経が登場させた菩薩行によって決着をつけなければならなかったからである、と

我が身ひとつは界(さか)ひつつ 十方界には形(かたち)分け
衆生(しゅじょう)あまねく導きて 浄光国には帰りたし

 ふりかえってみると、そもそもブッダはバラモンの哲学や修行の批判から出発した。宇宙の最上原理であるブラフマン(梵)と内在原理であるアートマン(我)への帰入を解いたバラモンから、自身のありのままをもって世界を見ることによって離脱することを考えた。道は険しかったけれど、ブッダはついに覚悟してバラモン社会から離れていった。
 覚悟したブッダが気がついたことは、世界を「一切皆苦」とみなすことだった。それによって、人間が覚醒に向かってめざすべきものは「諸行無常」の実感であって、「諸法無我」の確認であり、そのうえでの「涅槃寂静」という境地になることだろうと予想した。
 これはむろんたやすいことではない。ブッダはみごとに悟りをひらいたけれど、その精神と方法がそのまま継承できるとはかぎらない。継承者がいなくて縮退することは少なくない。そういう宗教なんて歴史上にはゴマンとあった。そこで、ブッダが説いた方法をもっと深く検討し、どのように継承すればいいかということが議論され、そうとうに深く研究されてきた。その方法が「縁起」によって相互の現象を関係させつつも、それらを次々に空じていくという「空」の方法だったのである。
 「空」や「縁起」がどういう意味をもっているかは、ここに話しだすとさすがにキリがないので、846夜にとりあげた立川武蔵『空の思想史』などを見てもらうこととして、しかし、ここでブッダ継承者たちのあいだで予想外の難問が生じてしまった。「空」と「縁起」を感じるにあたって、当時の多くの信仰者たちは自分の覚醒ばかりにそれをあてはめていったのだ。
 それはあとからみれば、それこそが声聞・縁覚の二乗の限界だった。しかしこれを切り捨てることなく、二乗作仏の試みをして、さらに菩薩行をもってその流れに投じさせるには、ひとまずは声聞・縁覚に菩薩を加えた三乗のスキームによって、これを大乗に乗せていかなくてはならない。当初の大乗ムーブメントは、その難関にさしかかったのである。その「2+1」を進めるには、どうすればいいのか。三乗を方便としつつ、これを一乗化していく文脈こそが必要とされたのだ。
 これを法華教学では「三乗方便・一乗真実」の教判という。声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗もろとも、一仏乗にしていこうというスキームだ。「2+1=10」という方法だ。
 さてさて、ところで、こういう言い方をするのは、なんとなく気がついただろうけれど、インド的な見方というより、実は中国仏教が得意とするハイパーロジカルな表現力なのである。実はこれまで述べてきた迹門と本門という分け方も、中国法華学によっている。天台智顗の命名だった。中国仏教はこういう議論が大好きなだったのである。ついでにその話をしておきたい。

古童子(いにしえどうじ)の戯れに 砂(いさご)を塔となしけるも
仏と成ると説く経を 皆人(みなひと) 持(たも)ちて縁結べ

 法華経は西暦紀元前後にインド西北で成立したサンスクリット語原本ののち、やがて昼は灼熱、夜は厳寒の砂漠や埃まみれのシルクロードをへて、ホータンやクチャ(亀茲)に、そして長安に届いた。ここで法華経が漢訳されると、これには中国的解釈が徹底して加えられ、東アジア社会の法華信仰の場に向かって大きく変貌していった。

宋版『妙法蓮華経』

 法華経の漢訳にとりくんだ鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)は、344年にクチャに生まれた。父親はインド出身の高貴な出家者で、母親はクチャの国王の妹だった。幼少期から仏法の重要性を教えられて育った鳩摩羅什は、やがて自身でもカシュガルに出向いて小乗仏教を修め、さらにはサンスクリット本の初期大乗経典を読むようになった。
 その名声に関心をもったクチャ王の白純は鳩摩羅什をあらためて国で迎えることにした。ところがそのころ関中にあって勢力を張り出していた前秦の符堅が羅什の名声を利用してクチャを攻略することを思いつく。かくて符堅が派遣した呂光は西域諸国を攻めてクチャ王を殺害、羅什を捕虜とした。このあたり、けっこう血腥い(もともと宗教は血腥い)。それから17年間、羅什は涼州に停住させられる。しかし涼州を姚興が平定すると、姚興は羅什を国師として長安に招くことにした。
 ここから鳩摩羅什が逍遥園のなかの西明閣や長安大寺で、数々の仏教経典の漢訳にとりくむというふうになる。その質量、35部294巻におよんだといわれるが、その最たる漢訳が、先行していた笠法護の『正法蓮華経』を一変させる『妙法蓮華経』だったのだ。鳩摩羅什はほかにも『阿弥陀経』『維摩経』『中論』『十二門論』『大智度論』などを漢訳した。廬山の慧遠(えおん)と交わした往復書簡集『大乗大義章』も興味深いものだった。
 ところで姚興が羅什の出奔をおそれて美女十人をあてがったのというのは有名な話だが、羅什のほうもそれを拒むこともなく悠然と美女と遊んで暮らしたというのだから、なるほど仏典翻訳編集の難行と愉悦とはこういうものでもあるかと思わせる。いやいや、仏典翻訳がつねにそういうふうであるというのではありえません。鳩摩羅什はそうだったということだ。
 さて、この鳩摩羅什の法華経が一挙に広まると、その弟子の道生(どうしょう)はさっそく注釈書をあらわし、それを法雲がうけつぎ、さらに随の天台智顗が徹底的に分析を始めた。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』などが著述され(これを天台三大部という)、漢訳法華経にひそむ迹門・本門の構造がこのとき発見されたのだ。智顗はそのうえ、かなりハイパーロジカルな思索をもって、法華経こそが大乗仏教最高の経典であるとのお墨付きをつけた。
 こうして中国法華経学が起爆した。ちなみにぼくは工作舎で「遊」を編集しているあいだじゅうずっと、親しいスタッフには『摩訶止観』を読むように勧めつづけたものだった。

仏に華香奉り 堂塔建つるも尊しや
これに優れてめでたきは 法華経もてる人ぞかし

 こうした中国仏教における法華経解釈には、当然ながらいつくかの大きな特色がある。そもそも鳩摩羅什の長安における漢訳が国家的文化事業であったことにあらわれているように、中国においては仏法は王法に匹敵できたのである。ただし、そこには儒教やタオイズムとの優勝劣敗が必ずともなった。
 また、中国では最初から大乗仏教が優先された。インド仏教のような部派仏教との争いがない。そのためかえって、大乗仏教のなかの何が最も優秀なのかという議論が途絶えなかった。華厳経・法華経・維摩経・涅槃経はつねに判定をうけつづけたのだ。それを「教相判釈」(きょうそうはんじゃく)というのだが、たとえばさきほど述べた「三乗方便・一乗真実」という見方は、たちまち「三乗真実・一乗方便」というふうに逆転もされたのである。
 こういう面倒な議論は朝鮮半島にも日本にもその傾向は流れこんできた。たとえば鑑真が来朝するにあたっては、天台三大部をこそもちこんだのだ。

 一方、知られるように、日本の法華経信仰はまず聖徳太子に始まっている。その『法華義疎』は法雲の注釈からの引用が多い。ついで最澄による『法華秀句』が出て、さかんに法華八講や法華十講がおこなわれるようになると、ここに日本独特の法華美学のようなものが立ちあらわれてきた。
 法華経を紺紙に金泥で写す装飾経、法華経の一文字ずつを蓮弁に書く蓮台経、扇面に法華経を綴る扇面法華経、清盛が厳島神社に奉納した平家納経、道長の大和金峰山でのものが有名な埋経など、まさに法華経はまたたくまに人心と官能をとらえていった。
 そこに、法華経を歌謡に転じる釈教歌(しゃっきょうか)や、今夜は見出しにおいてみた『梁塵秘抄』の法文歌(ほうもんか)や、法華二十八品歌なども加わって、公家も女房も武門さえ、ひとしく法華経賛歌に酔ったのだ。日本の法華経はずいぶん官能的であり、また美の対象とされたのだ。

扇面法華経

 このことについては、近世の狩野派や等伯や宗達らのトップアーティストの多くが法華衆であったことなどともに、いずれ論じたい。
 しかし、こうした和風の法華経感覚ともいうべきに、突如として雷鳴のような一閃を食らわし、独自の法華経思想を旋風のごとく確立していった法華経行者があらわれた。藤末鎌初に登場してきた日蓮である。日蓮についてはいつか『開目抄』か『立正安国論』かをとりあげて千夜千冊したいけれど、ここではとりあえず一言だけふれておく。
 ともかく凄い。その不惜身命(ふしゃくしんみょう)の行動をいっさい除いても、こんな法華経の見方をした者はインドはむろん、中国仏教者にもいなかった。そもそも「南無妙法蓮華経」という題目を設定したことが、インドにも中国にもない。また法華経そのものとその菩薩行において仏法を統一するという構想に徹したのみならず、日本という国家を法華経によって安国できると見たのも、凄かった。とくに10「法師品」から22「嘱累品」あたりをつぶさに検証して、そこに殉教・殉難の精神の系譜を見いだしたことは、すこぶる独創的だった。

日蓮聖人による大曼荼羅本尊
中央の文字は、法華経宇宙を象徴する「南無妙法蓮華経」という題目

 日蓮の孫弟子の日像、舌を切られ灼熱の鍋をかぶらされた日親、不受不施派に徹して対馬に流された日奥、さらには明治近代の田中智学や内村鑑三(250夜)北一輝や石原莞爾におよぶ流れにも、日蓮の法華経世界観の投影を議論すべきであるけれど、今夜はそこまで足をのばさないことにする。

達多五逆の悪人と 名には負へども実(まこと)には
釈迦の法華経習ひける 阿私仙人 これぞかし

 では、こんなところで、今夜の法華経談義を仕舞いたい。なんだか何も説明できなかったように思うけれど、まあ、しかたない。キリなく書きたいことばかりが押し寄せて、これでも書き換えたり、削除したりするのが精一杯だったのだ。
 そこで最後にちょっとばかり12「提婆達多品」(だいばだったほん)のことを、付言する。なんとなくそういう気分になってきたからだ。
 法華経はこの直前の11「見宝塔品」で、法華経の弘通に力を尽くす者がどんなにすばらしい功徳を得られるかということを説くのだが、第12品では、その弘通を阻もうとする提婆達多さえ、悪人成仏の可能性をもっていることにつなげてみせる。もとより提婆達多(デーヴァダッタ)は仏法を迫害する悪魔であって魔王のようなものである。キリスト教ならサタンやアンチ・キリストにあたる。ところがブッダはこの提婆達多に感謝した。
 話の顛末は、こうである。ある国の国王がその国の人々を救いたいと考えた。しかしそのためには法を求めなければならない。それには国王の座を捨てたほうがいい。けれども、その法をどこで学べばいいか。もしそのようなことを教えてくれる者がいるのなら、自分はその召使いになってもいいと考えた。そのとき阿私仙人という男がやってきて、自分は法をよく知っていると言うので、国王はよろこんで仙人の身のまわりの世話をした。いくら仕えても飽きることがない。なぜなら、それが法を会得するためだったからだ。

仙人に仕える王の図

 と、いうところでブッダが、この話の裏を言う。国王とは実は自分のことなのだと明かす。そして、その仙人とは提婆達多であったとも明かす。もともと提婆達多はブッダの従兄弟(いとこ)にあたっていて、その弟が多聞第一といわれた阿難であった。これでも見当がつくかもしれないが、ブッダと提婆達多は若いころからのライバルだったのである。ブッダはヤシュダラを妃に迎えたが、提婆達多もヤシュダラに思いを寄せていた。しかるにブッダは提婆達多の成仏の可能性を説く。
 だいたいはこういう話が前半にあり、ついで後半に8歳の龍女にも成仏の可能性があるというふうになっていく。
 当時、女性は垢穢(くえ)のために法器にあらず、成仏を志す器ではないと言われていた。この第12品でも舎利弗が龍女に向かって、おまえはとうていそんな資格がないと言う。しかし龍女が黙って身につけていた宝珠をブッダにさしあげると、たちまち龍女は男子に変成した。有名な「男子変成」(なんしへんじょう)だ(『17歳のための世界と日本の見方』参照)。
 この、二つの奇妙な挿話で「提婆達多品」はできているのだが、さて、この章が鳩摩羅什の『妙法蓮華経』にはバッサリ落とされている。サンスクリット原本では前章の「見宝塔品」に入っていて、笠法護の『正法蓮華経』もそうなっている。それなのに、なぜ鳩摩羅什はこれを消したのか。実は仏教界では、その理由がいまなお取り沙汰されているところなのだ。そのため、ここは“法華経の謎”とも、また悪人成仏と女人成仏を説いたということで、“大乗仏教そのものの謎”ともされてきたところなのである。
 ぼくは、この「提婆達多品」こそ、その後の法華経の運命を左右するものとして仕込まれたのだと思っている。付け加えておく気になったのは、このことだ。それ以上でもそれ以下でもないが、この話、やはり法華経全巻の「負」を背負っているように思う。
 諸君はどう思うだろうか。あれほどの鳩摩羅什も、いささか美女と遊びすぎたのだと、そんなふうに結べれば、それもまたオツなところになるけれど……。

 

法華経の教えが説かれた霊鷲山