木曜日, 11月 30, 2017

Akira KUROSAWA

映画カメラマン 宮川一夫
https://youtu.be/Lj6ZfJcyvSE
____



姿三四郎 https://i.gyazo.com/095e1ac5d56d1d4301f069d4b21cec4a.gif
続姿三四郎 https://i.imgur.com/ZQnwBLM.gif
羅生門 https://i.gyazo.com/4f8abf38f84abd0528369eabf6f412d8.gif
蜘蛛巣城 https://i.gyazo.com/e4b7407db816f5758fd0cd804f43317b.gif

七人の侍「野武士はッ?……野武士はッ?……野武士はッ?……」「野武士はもうおらん!」
https://i.imgur.com/oNyqk7K.gif

蜘蛛巣城 https://i.gyazo.com/e4b7407db816f5758fd0cd804f43317b.gif
隠し砦の三悪人 https://i.imgur.com/QOSZy0r.gif
椿三十郎 https://i.imgur.com/DQy0lki.gif
天国と地獄 https://i.imgur.com/Vp4t0DM.gif https://i.imgur.com/MgeKOMy.gif




『影武者』 https://i.imgur.com/ikU3bum.gif

『乱』 https://i.imgur.com/8VosY3P.gif


黒澤明 アカデミー名誉賞 1990年
https://youtu.be/jJHWKUeGz2E
“芸術家であるならば物事から目を背けてはならない” 黒澤明
“ To be an artist means never to avert one's eyes.” -Akira KUROSAWA
https://i.imgur.com/PS7QZ41.gif

“狂気の世界では 狂気のみが正気である” 黒澤明
“In a mad world only the mad are sane.”-Akira KUROSAWA
https://i.imgur.com/TlImsCu.gif

Madadayo (1993) Seasons passing scene https://i.imgur.com/ETcNvRN.gif
https://youtu.be/QZANCZGXEWM

羅生門~赤ん坊を抱く法師。その赤ん坊に手を伸ばす木こり。
「何をする。この赤子から肌着まで剥ぐつもりか」
「わしのところに子供が6人いる。6人育てるも7人育てるも同じ苦労だ」

羅生門は認識の相対性を描いているが主知主義的作品ではない…


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「野武士はッ?……野武士はッ?……野武士はッ?……」
「野武士はもうおらん!」
《 もうひとつのショットをあげよう。黒澤明の映画『七人の侍』のシーンである。中世の日本の村。馬上の野武士と地上の侍との闘いが続けられる。激しい雨。すべてが泥にまみれている。侍のつけた日本の昔の衣裳は足のところが上の方までまくりあげられている。足は泥まみれである。ひとりの侍が殺され、倒れる。すると雨がこの泥を洗い流していく。彼の足は白くなっていく。大理石のような白さ。男は死んだ! これは、事実というイメージである。これは象徴体系から免がれている。これこそイメージなのである。
 恐らく、このイメ―ジは.偶然に生まれたのだ。俳優は走り、そのあとで倒れ、雨が泥を洗い落とす。もはやわれわれはこれが映画監督の新発見だとは思わないだろう。》
タルコフスキー 映像のポエジア 103

https://youtu.be/pJ3G1yuwJ1k?t=44m14s
上ではなく多分以下、
https://youtu.be/pJ3G1yuwJ1k?t=46m34s

姿三四郎
Image from Gyazo
羅生門
  Image from Gyazo
蜘蛛巣城
Image from Gyazo

黒澤明、関連動画:
A message from Akira Kurosawa
Послание Акиры Куросавы (A message from Akira Kurosawa: for beautiful mo...


ドゥルーズ 黒澤明を語る


黒澤明 アカデミー名誉賞 1990年



1990/03/26

フェデリコ・フェリーニ、黒澤明を語る
https://youtu.be/9D3-bFlICy4

淀川さん黒澤映画を語る
https://youtu.be/iyTJXDBVptY

 

黒澤明 アカデミー名誉賞 1990年
https://youtu.be/jJHWKUeGz2E

“狂気の世界では
狂気のみが正気である” 黒澤明
“In a mad world only the mad are sane.”-Akira KUROSAWA

“芸術家であるならば物事から
目を背けてはならない” 黒澤明
“ To be an artist means never to avert one's eyes.” -Akira KUROSAWA

 



http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20080418/1009558/
「…いや、というのも、まだ、私は映画というものをはっきりとつかんでいない気
がするからです。映画は素晴らしい。しかし、この素晴らしく美しいものをつかむ
のは大変難しい。これからも映画という素晴らしいものをつかむために全力を尽くす
つもりです。それこそが、この賞に応える一番いい方法だと思うからです」

 

續姿三四郎 1945年
http://www.d3.dion.ne.jp/~masaji.s/kuro13.html
苦悩する三四郎の姿を描く場面が多くて沈みがちなシーンが多い中にあって、時折ユーモアのあるシーンが挿入される。
和尚と座禅を組み合って、眠りこけてしまった三四郎に対して和尚は朝になってもまだ座禅を組み続けていたのだが、目を覚ました三四郎がよくよく見ると、和尚も座禅を組みながら眠っていたなどは、その最たるもの。
その他にも、小夜と別れた三四郎が振り返ると、小夜が別れの会釈をしていて、何度もこれを繰り返して名残を惜しむシーンなども張り詰めたものを解きほぐすシーンとなっていた。
黒澤明の第一作が「姿三四郎」で、その続編がこの「続姿三四郎」だったという黒沢ライブラリーとしての歴史的な存在価値で本作はその名を留める作品なのだと思う。

《「この断片と断片の間のあやしい生命--これこそ映画のいのちがはじ
まるところであるが--それを的確につかむ事こそ、フイルムの断片を
っなぐ仕事の本質なのである」
(黒澤明「映画の編集について」『キネマ旬報』1948年1月下旬号)

 黒澤は、この「間」に映画そのものがあると考える。

「カットとカット、シーンとシーン、シークエンス(ひと続きの画面)と
シークエンスのつなぎ目に映画があるんですよ。映画の流れのつなぎ目
に映画そのものがある。つなぎ方の呼吸が大事で、その呼吸から映画
が出てくるといってもいいのだけれど」(「黒澤明の世界『語る』」
「朝日新聞(夕)」一九九四年四月十四日)》

黒澤明全作品と全生涯269頁より孫引き(朝日の方は『大系』には未収録?)




https://i.imgur.com/cBKkWfM.gifv
「野武士はッ?……野武士はッ?……野武士はッ?……」
「野武士はもうおらん!」



《 もうひとつのショットをあげよう。黒澤明の映画『七人の侍』のシーンである。中世の日本の村。馬上の野武士と地上の侍との闘いが続けられる。激しい雨。すべてが泥にまみれている。侍のつけた日本の昔の衣裳は足のところが上の方までまくりあげられている。足は泥まみれである。ひとりの侍が殺され、倒れる。すると雨がこの泥を洗い流していく。彼の足は白くなっていく。大理石のような白さ。男は死んだ! これは、事実というイメージである。これは象徴体系から免がれている。これこそイメージなのである。  恐らく、このイメ―ジは.偶然に生まれたのだ。俳優は走り、そのあとで倒れ、雨が泥を洗い落とす。もはやわれわれはこれが映画監督の新発見だとは思わないだろう。》 タルコフスキー 映像のポエジア 103頁
https://youtu.be/pJ3G1yuwJ1k?t=46m34s

アインシュタイン 何故社会主義か



>私的資本は集約されて、寡占状態に向かう。それは一つには資本家の間の
>競争により、また一つには技術的な発展と分業の増大が、小企業を犠牲に
>しながら生産単位を大きくするほうが有利であることによる。この過程の
>結果、寡占状態の私的資本の力は著しく増大して、民主的に組織された政
>治的な環境においてもうまくチェックすることができなくなる。

Private capital tends to become concentrated in few hands, partly because of 
competition among the capitalists, and partly because technological development 
and the increasing division of labor encourage the formation of larger units of 
production at the expense of smaller ones. The result of these developments
 is an oligarchy of private capital the enormous power of which cannot be 
effectively checked even by a democratically organized political society. 

何故社会主義か

アルバート・アインシュタイン

アメリカの左翼月刊誌 Monthly Review の創刊号に1949年に掲載されたもので,日本物理学会の中のサークル誌「科学・社会・人間」94号(2005年9月10日発行)掲載の日本語訳を転載します.原文はこちらです.転載を許可いただいた同誌編集部にお礼申し上げます.

原文はこちらワード文書

 経済や社会の問題についてのエクスパートでない人物が社会主義といった主題について意見を述べていいものであろうか。いくつかの理由によって、私はそうだと信じている。
 まず最初に、科学的な知識という観点から問題を考えてみよう。天文学と経済学との間で、研究方法に基本的な違いはないと思われる。どちらの分野でも、研究者はある範囲の現象の相互関係ができるだけはっきりと理解できるように、一般的に受け入れられるような法則を発見しようとする。しかし実際には、方法的な違いが存在している。経済学の分野では、経済的な現象に影響している沢山の因子を分離して評価することが非常に難しいという事実のために、一般的な法則の発見は非常に難しい。さらに、いわゆる人類史の文明時代の開始以来蓄積されてきた経験は、よく知られているように、必ずしも経済的な性格のものではない原因によって影響され、制限されている。例えば、歴史における主要な時代は、大抵征服によってつくられた。征服した人々は、そこで自分たちを法的・経済的に特権的な階級として確立した。彼らは土地の所有権を独占し、同じ階級から聖職者を指名した。聖職者は、教育に関わることによって階級を固定化し、人々の社会的な行動を、多くの場合意識されることなしに、規定するような価値基準を作り出した。
 しかし歴史的な伝統は、いってみれば、過去の話である。われわれは、ソースタイン・ヴェブレンが人類史上「略奪期」と呼んでいるものを克服できていない。われわれが目にする経済的な事実は「略奪期」に属しており、これらの事実からわれわれが引き出す諸法則は、他の時代には適用できない。社会主義の本来の目的は正に「略奪期」を克服して人類史上に新しい時代を創る事にあるのだから、現在の経済学が未来の社会主義社会についていえることはほとんどない。
 第二に、社会主義は社会-倫理的な目標に向かう。しかし科学には、目標を作ったり教えたりすることはできない。科学にできるのはせいぜいのところ、ある目標を達成するのにはどうしたらよいかを示すことでしかない。目標それ自体は、崇高な倫理的理想を持った個性によって考え出される。そして - その目標が生まれたときから死んでいたりせず、生きて活力を持っているならば - 半ば無意識的に社会を進歩させようと決心している多くの人間たちに選び取られ、前に進められる。
 このような理由から、人間の問題に対する科学と科学的方法の役割を過大評価すべきではない。そして、社会の組織に関する問題については専門家だけが発言する資格がある、などと考えてはならない。
 人間社会は現在非常に安定性を欠いていて、危機にある、と断言する人が多い。このような状況では、個々人はその属するグループ(小さくとも大きくとも)に対して無関心、あるいは敵対的になりがちである。個人的な経験を書かせて頂くが、私は最近知性的で育ちの良い人と次の戦争について議論をした。私は、もう一度戦争が起きたら人類の生存自体が非常に脅かされるので、現在の国家を超えた機関を作ってそのような危険を避けなければならない、と述べた。それに対して相手は、とても穏やかに冷静に、「どうしてそんなに人類の消滅に反対なさるのですか」といった。
 たった一世紀前には、こんな事をあっさりという人は確かにいなかった。こんな事をいう人は、自分を安定に保つために努力をして失敗し、その希望を持てなくなったのだ。これは、現在多くの人々が苦しんでいる孤独と孤立の表現なのである。その原因は何で、どう打開したらいいのだろうか。
 このような問題を提出するのは簡単だが、多少とも確信を持って答えるのは難しい。しかし私は、われわれの感覚と努力はしばしば矛盾し明瞭さを欠いていて、易しく簡単に表現はできないことを認識しているけれども、できるだけのことをしてみよう。

 人間は孤独な存在であり、また同時に社会的な存在である。孤独な存在として人間は、個人的な欲望を満たし生得の能力を発展させるために、自分自身と身近な人々の生存を守ろうとする。社会的な存在としては、仲間である人間たちと楽しみを共にし、悲しんでいる時には慰め、また生活条件を良くし、人々に認識され好意を持たれようとする。このようなさまざまな、しばしば互いに矛盾する努力の存在こそが、ある人物に固有の性格を与え、また各個人がどれほど精神の平衡を得、社会の良きあり方に寄与するかが決まる。その人がこの二方向のどちらにどれほど努力するかは主として遺伝的に決まっている、というのはありそうなことだ。しかし最終的にできあがる個性は、自己形成の際の環境、その人の育った社会の構造、その社会の伝統、どのような行動が評価されるかによるところが大きい。「社会」という抽象的な概念は個々人にとって、現在を共に生きている人々や前の世代の人々との直接的・間接的な関係全体を意味している。それぞれの人間は自分で考え、感じ、努力し、働くことができるけれども、物理的・精神的・感情的な生活において非常に多くを社会に負っているので、社会の枠組みの離れてその人を考え、理解することは不可能である。食糧・衣服・住処・働くときの道具・言葉・考えの進め方や思想の内容の大部分を人間に与えるのは「社会」である。生活は、「社会」という短い言葉に隠れている何百万もの過去と現在の人間たちの労働とその成果によって、初めて可能になっているのだ。
 だから、人間が社会に依存しているというのは蟻や蜂と同様に自然界の事実であって、止めるわけにはいかない、ということは明らかである。しかし、蟻や蜂の生活過程が全て、遺伝的本能で細部にわたるまでがっちりと決められているのに対して、人間の社会的様式や関係は変化することができる。記憶・新しい行動様式の可能性・会話による意見の交換などが、生物としての必要性に決定されてしまわない人類の発展を可能にした。この発展は、伝統・公共機関・文書・理学や工学の成果・芸術作品に明らかである。これを見れば、人間は自分の行動によって、ある意味で生き方を変える事ができる。そこでは、意識的な思考と足りないことの認識とが重要である。
 人は生まれたときに、遺伝によって生物的な組織を受け継ぐが、種としてのヒトの特徴である自然の衝動を含めて、それは固定的で変更できないと考えざるを得ない。さらにその生涯を通じて、社会からの情報その他の影響を通じて文化的な体質を受け継ぐ。時と共に変化しながら個人と社会との関係を強く規定するのは、この文化的な体質である。近代の文化人類学がいわゆる原始文化の比較研究によって述べるところによれば、人間の社会的行動はそこで主流である文化様式と社会で主要な組織の型によって非常に変化しうる。生活環境を良くしようとして努力する多くの人たちは、希望の根拠をこの点に置いている。人はその生物的な組織によって互いに殺し合うように運命づけられているわけではないし、負わされた残酷な運命のなすがままであるわけでもない。
 人間の生活をできるだけ満足のいくように、社会と人々の文化的な姿勢をどう変えなければいけないか、という問題を考えるならば、われわれには変えることのできない条件が課せられている、という事実をいつも意識していなければならない。前に述べたように、ヒトの生物的な性質は、実際的な目的に対してはいつも、変えられはしない。さらに、ここ数世紀の技術的な発展と人口の増加は、作り出された与件である。人口密度の高い地域で生活のために必要不可欠な商品を生産するためには、極端な分業と高度に集中した生産組織が絶対的に必要である。個人あるいは比較的少数のグループが完全に自給してやっていけるような ― 見返ると全く田園詩的な時代 は、永久に去ったのである。人類は既に地球全体に亘る生産と消費のコミュニティを造りあげてしまった、というのは誇張ではない。
 現代の危機の核心を構成していると私が考える事を、簡単に述べておこう。それは、個人と社会の関係にかかわっている。各個人は、以前よりもずっと、自分が社会に依存していることを意識するようになった。しかしその依存の内容は、有機的な連帯や危険から守る力といったポジティブなものではなく、本来備わっている権利や経済的な生存をすら脅かすものと考えられている。さらに、その社会の中の位置は利己的な部分にますます力点が置かれ、元々弱い社会との連帯はますます弱められる。人間はみんな、社会の中の地位にかかわらず、社会との連帯が弱まりつつあることに苦しんでいる。気がつかないまま自分のエゴティズムに囚われて、人々は不安を感じ、孤独であり、ナイーブで簡単で持って回った様なものでない生活の楽しみを奪われている、と感じている。人間は、社会との関係に置いてのみ、短くて危険であるその生涯の意味を知ることができるのだ。
 私の意見では、今日の資本主義社会の経済的なアナーキーが悪の根元である。われわれの前には巨大な生産者の集団があって、その構成員は休むことなく ― 暴力的にではなく、法的に確立されているルールに概して忠実に従いながら ― 全体の労働の成果を互いに奪い合っている。この点から見ると、生産手段 ― つまり、消費財と余剰資本を生産するのに必要な全容量 ― が、法的にもまた大体において実際にも、各個人の私有財産である、ということが重要である。
 簡単のために、以下の議論で私は「労働者」という言葉を ― 慣用とは少し違うけれども、生産手段を持っていない人という意味で使う。生産手段の所有者は、労働者の労働力を購入する。生産手段を用いて労働者は新しい財を生産し、それは資本家の所有となる。この過程の基本的なところは、両方を本当の価値で考えたときに、労働者が生産するものと彼が支払われるものとの関係にある。労働契約が「自由」である限り、労働者が受け取るものは彼の生産した財の本当の価値で決まるのではなく、彼にとっての最小限の必要と、資本家からの労働力の需要とその仕事に就きたいという労働者の人数との関係で決まる。理論的にも、労賃がその労働者の生産するものの価値で決まるのではない、ということを理解することは重要である。
 私的資本は集約されて、寡占状態に向かう。それは一つには資本家の間の競争により、また一つには技術的な発展と分業の増大が、小企業を犠牲にしながら生産単位を大きくするほうが有利であることによる。この過程の結果、寡占状態の私的資本の力は著しく増大して、民主的に組織された政治的な環境においてもうまくチェックすることができなくなる。立法院の議員は政党が選択するが、その政党は私的資本から財政的その他の援助・影響を受けていて、一方私的資本には選挙民を立法院からなるべく隔離しておこうと考える実際的な理由がある。その結果、市民の代表は特権を持っていない人々の利益を十分には守らない。さらに現在の状況では、私的資本が主要な情報源(新聞・ラジオ・教育)を直接・間接に操るということが不可避である。その結果、個々の市民が客観的な結論に達して、政治的な権利をうまく使うということは非常に難しく、多くの場合に全く不可能である。
 こういうわけで、資本の私的所有に基づく経済社会で一般的な状況は、二つの主要な原則で特徴づけられる。第一に、生産手段(資本)が私的に所有されており、所有者はそれを勝手に使う。第二に、労働契約は自由である。もちろん、この意味で純粋な資本主義社会などというものは存在しない。特に、労働者が長く過酷な政治的闘争によって、あるカテゴリーにおいては「自由な労働契約」を改善された形に確保することに成功した、ということに注意すべきである。しかし全体としていえば、現在の経済は「純粋の」資本主義とそれほど違ってはいない。
 生産は、使うためではなく利益を上げるために行われる。働く能力と意思のある者が全て、いつも職を見つけられるという保障はない。「失業者軍」はいつも存在しており、労働者は職を失う危険にさらされている。失業者・給与の十分でない労働者は利益の上がる市場を作らないから、消費財の生産には限界があり、その結果大きな困難が生じる。技術的な進歩はしばしば、全ての人の仕事を楽にするよりも、失業者を増やしてしまう。利潤のためという動機は、資本家同士の競争と共に、資本の蓄積と使用に不安定をもたらし、不況が深刻化することになる。制限のない競争は労働の巨大な浪費と、既に述べたような個々人の社会的意識の麻痺をもたらしている。
 人々の社会的意識の麻痺は、資本主義の一番の害悪だと私は思う。われわれの全教育システムは、この害を被っている。過度に競争的な態度が学生に叩き込まれ、学生はその将来のキャリアの準備として、欲深い成功を崇拝するように訓練される。
 私は、このような深刻な害を取り除くためには一つしか道はないと確信している。すなわち社会主義経済と社会の目標に向けた教育システムの確立である。生産手段は社会それ自体によって保有され、計画的に用いられる。社会の必要にあわせて生産する計画経済では仕事は能力のある全ての人々に分配され、全ての男・女・子供に生計のたつきを保証するだろう。教育は、各人が生まれつき持っている能力を花開かせるだけでなく、現在の社会が権力と成功に置いている栄光の代わりに、仲間たちへの責任感のセンスを育てようとするだろう。
 とはいっても、計画経済は社会主義ではないことを思い出す必要がある。計画経済は、個人の完全な奴隷化を伴うかも知れない。社会主義を実現するためには、非常に難しい社会―政治的な問題を解決しなければならない。 政治的・経済的な権力の極端な中央集中を考えて、官僚が全ての権力を収めて独善的になるのを防ぐことができるか。個人の権利をいかに守り、それによって官僚の権力に対する民主的なバランスを保つことができるか。
 社会主義の目的と問題についての透明性は、この転換期において最も重要なことである。これらの問題についての自由で忌憚のない議論がタブーになりつつある現在の状況下で、この雑誌(Monthly Review)の創刊は社会的に重要なことだ、と私は考えている。

水曜日, 11月 29, 2017

シェークスピア ソネット

http://mineyo-tk.main.jp/kangeki/sonet/index.html

シェークスピア ソネット66
ケインズが書簡で言及

ーー
マクベス

Fair is foul, and foul is fair

きれいはきたない、きたないはきれい 
闇と汚れの中を飛ぼう

ケインズが平和#3でウィルソン大統領を揶揄するなかで引用

22頁

ケインズ『貨幣論』『貨幣改革論』『確率論』:メモ

                  (経済学リンク::::::::::) 
ケインズ『貨幣論』1929,『貨幣改革論』1923,『確率論』1921:メモ  
http://nam-students.blogspot.jp/2015/10/1979-john-maynard-keynes-treatise-money.html


平和の経済的帰結 The Economic Consequences of the Peace (1920)

http://nam-students.blogspot.jp/2017/03/economic-consequences-of-peace-1920.html

ケインズ「平和条約の経済的帰結」:「経済のトリセツ」

http://cruel.hatenablog.com/entry/20150726/1437917592

Shakespeare sonnet 66
Tired with all these, for restful death I cry,
As, to behold desert a beggar born,
And needy nothing trimm'd in jollity,
And purest faith unhappily forsworn,

And guilded honour shamefully misplaced,
And maiden virtue rudely strumpeted,
And right perfection wrongfully disgraced,
And strength by limping sway disabled,

And art made tongue-tied by authority,
And folly doctor-like controlling skill,
And simple truth miscall'd simplicity,
And captive good attending captain ill:

Tired with all these, from these would I be gone,
Save that, to die, I leave my love alone.

高木登新訳 シェイクスピアのソネット

http://mineyo-tk.main.jp/kangeki/sonet/s_2010/s_no66.html

66 こんなことにはうんざり

 

こんなことにはうんざりで、安らぎを与える死を望む。

たとえば、乞食にでも生まれた方がいい人間を見るとき。

ろくでもない人間がきれいに着飾っているのを見るとき。

絶対だと信じていたことが不幸にして裏切られるのを見るとき。

 

黄金の栄誉が破廉恥に与えられるのを見るとき。

貞淑な処女が手荒に娼婦にされるのを見るとき。

完全無欠が理不尽に貶められるのを見るとき。

権力が不安定な統治で不能に陥るのを見るとき。

 

学芸が当局によって口をつぐまされるのを見るとき。

下手糞が、学者顔して、上手を指図するのを見るとき。

率直な真実が愚か者扱いされるのを見るとき。

囚われの身の善が悪徳に隷従するのを見るとき。

 

  こんなことにはうんざりで、いっそ死んでしまいたい。

  愛する人が一人きりになるのでその願いもかなわない。

 

 

【私の鑑賞】

珍しいことに詩人が社会批判をして、不満を述べている。

詩人は、今の世の中の実情が虚飾に満ち、何もかもに嫌気がさしている。

何を見てもうんざりするばかりである。

こんなことなら死んでしまった方がましだと思うが、愛する人を一人残していくことになると思えば、その決心もつかない。


和そねっと集(シェイクスピア『ソネット集』の「和そねっと」形式による翻訳の試み)

http://etakagi.private.coocan.jp/sonnetsj.html
66.

Tired with all these, for restful death I cry,
As, to behold desert a beggar born,
And needy nothing trimm'd in jollity,
And purest faith unhappily forsworn,

And guilded honour shamefully misplaced,
And maiden virtue rudely strumpeted,
And right perfection wrongfully disgraced,
And strength by limping sway disabled,

And art made tongue-tied by authority,
And folly doctor-like controlling skill,
And simple truth miscall'd simplicity,
And captive good attending captain ill:

Tired with all these, from these would I be gone,
Save that, to die, I leave my love alone.

うんざりだ、 安らかな死を われ求む。
 才ある者が 乞食に生まれ、
取り柄なき 者宴会に 着飾って、
 純な信義が 裏切られるは。

金栄誉 恥ずべき者に 与えられ、
 貞淑な徳 淫売と呼び、
誤って 正しきことが 不興買い、
 力が不具に されてしまうは。

学芸が 権力に舌 縛られて、
 学者づら馬鹿 技能操り、
単純な 真理誤り 馬鹿にされ、
 囚われの善 悪にかしずく。

こんなのは みなうんざりだ、 おさらばしたい、
だが死ねば、 恋人ひとり 置き去りとなる。




月曜日, 11月 27, 2017

20171128 【東京大学】量子力学が予言した化学反応理論を初めて実験で証明




【東京大学】量子力学が予言した化学反応理論を初めて実験で証明

1しじみ ★2017/11/28(火) 03:18:56.11ID:CAP_USER
〈発表のポイント〉 

19世紀以来、化学者はアボガドロ数(10の23乗)個の分子の平均像から化学反応の速度を決定してきた。 
今回、数十から数百個の分子の反応を調べるだけで速度と反応機構を決定できた。 
一次元に並べた数十の分子の反応を逐次的に原子分解能顕微鏡で追跡して 
「分子一つ一つはランダムだが総和を取ると一次反応速度式に従う」という量子力学理論の予測を実証した。 
顕微鏡を用いて化学反応を記録し解析できることを実証した本成果は、従来の顕微鏡科学の常識を凌駕し、 
今後、化学、生物学、材料研究における超微量、 
超高分解能の構造決定の革新的分析手法として新たな研究分野および産業応用を切り拓くことが期待される。 

〈発表概要〉 

東京大学大学院理学系研究科化学専攻の中村栄一特任教授、原野幸治特任准教授、山内薫教授らの研究グループは、 
確率論的に起こる一つ一つの分子の反応挙動を顕微鏡で見ることで、 
その挙動が量子力学の理論の予測に合致することを初めて明らかにした(図1)。 


ダブルスリット実験は電子の量子性を表す著名な実験である。 
電子一つ一つは粒子としてランダムに挙動する一方で、波としての法則性も示す。 
分子同士の反応も同様に挙動するものと予測されてきたが実験的証明はなかった。本研究では、化学反応がランダムに起きる一方で、 
統計的には一定の法則に従う、という量子力学的遷移状態理論の予測を実証した。 

化学反応研究は19世紀以来、反応容器の中に入れたアボガドロ数(10の23乗) 
個の分子の総量の増減(バルク実験)を追跡することで行われてきた。 
今回、一次元に配列させた[60]フラーレン(注1)分子の反応を、分子一つ一つについて、 
温度を変えながら原子分解能電子顕微鏡(注2)で直接観察して、数十個の分子について積算した。 

本成果を応用することにより、 
多数の分子の平均に頼る従前の研究手法では平均に埋もれてしまった微細な分子の動きに関する情報が獲得できるようになり、 
新しい化学反応の発見や、宇宙空間や地球内部など高エネルギー環境における反応モデルの提唱、 
さらには原油の接触改質などの工業スケール反応における高効率触媒の開発や合理的な化学反応プロセスの設計につながると期待される。 


図1. 本研究の概要図 
https://apps.adm.s.u-tokyo.ac.jp/WEB_info/p/pub/2762/image001_nakamura.jpg 

続きはソースで 

東京大学 
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2017/5616/

発表内容

電子のダブルスリット実験は電子のもつ量子性を表す実験として著名である。隣り合う二つのスリットを通して多数の電子を送り出すと、電子一つ一つは粒子としてランダムに挙動して検出器に到達するが、到達した電子の着地点の位置の統計を取ると、不思議なことに、あたかも波としての法則性を示して、干渉縞を形成する。量子力学に基づいた化学反応速度理論は、ランダム(確率論的)に起こる分子同士の反応でも同様のことが起きるものと予測してきたが、実験的証明は報告されていなかった。

今回の発見はこの量子力学的遷移状態理論の予測を実証したものである。二つの分子が化学反応する様子を原子分解能電子顕微鏡で直接見ながら、その経過を実時間で追跡したところ、量子力学的遷移状態仮説に従って、個々の反応一つ一つはランダムに起きるが、その統計を取ってみると、分子の反応速度が一次反応(注3)という法則性を示す、ということを発見した。

中村教授らの研究グループでは2007年以来、「原子分解能単分子実時間電子顕微鏡イメージング(SMART-TEM)」(注4)という独自分析手法を駆使し、小さな分子一つ一つの動きをあたかも映画撮影のように動画として記録することに成功している。今回の研究では、本手法で記録した数十個の分子が化学反応する過程を記録した動画を元に、反応が「いつ」「どのくらい」起こるのかを解析し、積算することで、反応の起こりやすさの指標である活性化エネルギーを求め、反応機構を推定することを示した。

本研究では、直径1.4ナノメートル(1ナノメートルは10億分の1メートル)の筒状物質であるカーボンナノチューブ(注5)を反応容器として用い(図2)、チューブの中に一次元に配列させた[60]フラーレンの反応を、分子一つ一つについて、温度を変えながら原子分解能電子顕微鏡で直接観察した。

 

図2. [60]フラーレン(紫色で示した球状分子)を詰めたカーボンナノチューブの模式図

 

図3および図4に示すように、隣り合った[60]フラーレン分子が結合してダンベル型の二量体(二分子が結合したもの)へと変化する過程が実時間の動画として記録された。

 

図3. カーボンナノチューブの中で[60]フラーレン同士が結合をつくる二量化反応をとらえた顕微鏡画像

 

 

図4. カーボンナノチューブ中での [60]フラーレンが反応の様子をとらえた電子顕微鏡画像。時間経過と共に、フラーレン分子同士が結合する(番号を線でつないだ分子のペア)。さらに観察を続けると二つの球が融合し一つの大きな球状分子になる(番号を線で囲った分子のペア)。図のスケールバーは2ナノメートルを示す。

 

本研究の鍵は、分子の運動を一次元に制限し、数えることが可能な一次元反応系とすることで、ランダムに起こる反応の数を時間を追って目でみて数えることが可能になった点にある。そこで、この[60]フラーレンの二量化反応に着目して、反応の起こる回数を電子顕微鏡の動画をみながら積算したところ、一見ランダムに起こっているようにみえる化学反応が、総和を取ると一次反応速度式に従うことが明らかとなった。これは量子力学的反応速度論による理論的予測を実験で実証した初めての例である。

さらに様々に温度を変えてより詳細な分析を行った結果、室温以上の実験条件ではこの二量化反応が電子的に励起された[60]フラーレンを経由して起こる一方で、室温以下の低温では電子線により[60]フラーレンが電子を失いイオン化することで反応が進行し、温度によって異なる反応機構をそれぞれ決定することができた(図5)。

 

図5. 温度と反応速度定数のプロット。393 K(120 ℃)以上の高温域と203 K(–70 ℃)以下の低温域では活性化エネルギー(反応が起こるために必要なエネルギー)が異なり、別々の反応機構で反応が進行していることを示している。

 

化学反応研究は19世紀以来、反応容器の中に入れたアボガドロ数(10の23乗)個の分子の総量の増減(バルク実験)を追跡することで行われてきた。今回、わずか数十個の分子の反応を観察するだけで、量子力学が教えるところの「分子一つ一つはランダムだが総和を取ると一次反応速度式に従う」ことを実証し、さらには反応機構を決定できたことは、分子科学の実験研究における画期的成果である。今回のようにカーボンナノチューブの内側に閉じこめるだけでなく、ナノチューブの外側に分子を付けて観察する技術も確立されており(2012年東京大学理学部プレスリリース参照)、より大きな分子や、たくさんの分子が関わる反応の分析にも応用が可能である。 これにより、多数の分子の平均に頼る従前の研究手法では平均に埋もれてしまった微細な分子の動きに関する情報が獲得できるようになり、新しい化学反応の発見や、合理的な化学反応プロセスの設計につながると期待される。

2017年のノーベル化学賞は生体分子観察のためのクライオ電子顕微鏡技術の開発が受賞対象となった。クライオ電子顕微鏡法は従前の分析法の概念を踏襲して、極低温下で、数千〜数十万個の動かない分子の平均的構造を計算機上で再構成する手法であり、最高で2–3オングストローム(1オングストロームは100億分の1メートル)の分解能でタンパク質をはじめとする巨大な分子構造を求めることができる。一方、SMART−TEM法は動かない多数の分子を観察して平均化するクライオ法とは異なり、ただの1分子や、構造の異なる多数の分子の混合物を、分離精製することもなく、また構造変化や化学反応など動的挙動も含めて、そのまま観察できる点で、一線を画している。解像度も1オングストローム以下と、原子一つ一つが区別できるほど高い。さらにクライオ条件(液体窒素の極低温条件)も不要であり、—170 ℃から800 ℃までの幅広い温度で直接分子を観察できることが、今回の研究成功の鍵ともなっている。「電子顕微鏡の究極目標(Holy Grail)が達成された」と目されてきた所以である。

顕微鏡を用いて化学反応という分子の「動き」を記録し解析できることを実証した本成果は、従来の顕微鏡科学の常識を凌駕するものである。今後、化学研究における超微量、超高分解能の構造決定の標準手法として応用を広げていくだけでなく、革新的分析手法として新たな研究分野、さらには産業応用を開拓することが期待される。

本研究の主たる成果は、科学技術振興機構 CREST「新機能創出を目指した分子技術の構築」(課題番号:JPMJCR14L4、代表者:中村栄一)の支援により得られたものである。電子顕微鏡の動画記録と画像処理の最適化については、科学技術振興機構 研究成果展開事業 先端計測技術・機器開発プログラム(代表者:原野幸治)の支援によって実施された。温度可変電子顕微鏡観察の一部は、文部科学省先端研究基盤共用促進事業(新たな共用システム導入支援プログラム)の支援を受けて実施された。

 

発表雑誌

雑誌名Journal of the American Chemical Society
論文タイトルDirect Microscopic Analysis of Individual C60 Dimerization Events: Kinetics and Mechanisms
著者Satoshi Okada, Satori Kowashi, Luca Schweighauser, Kaoru Yamanouchi, Koji Harano,* Eiichi Nakamura*
DOI番号10.1021/jacs.7b09776
論文URLhttp://pubs.acs.org/doi/10.1021/jacs.7b09776

 

 

用語解説

注1フラーレン

1985年にCurl、 Kroto、 Smalleyによって発見された炭素同素体の一つで、炭素原子がサッカーボール状につながった分子。1970年に大澤映二博士(当時京都大学)により初めて提唱された。炭素原子60個からなる[60]フラーレン(C60)が最も有名。世界に先駆け日本で工業生産が開始されており次世代材料の基盤物質として期待されている。

注2原子分解能電子顕微鏡

原子一つ一つを区別して観察可能な性能を有する透過電子顕微鏡。透過電子顕微鏡は光より波長の短い電子線を用いる顕微鏡で、物質を透過してきた電子線により像を結ぶことによって物質の形状を視覚的に知ることができる。近年の収差補正技術の進歩により、有機材料の観察に適した低加速電圧を用いた電子顕微鏡においても原子分解能での撮影が可能になった。東京大学分子ライフイノベーション棟に2015年に新設された最新鋭の透過電子顕微鏡(図6)では、0.07ナノメートルの空間分解能が実現されている。

 

図6. 今回の研究で使用した透過電子顕微鏡(東京大学分子ライフイノベーション棟設置:日本電子株式会社製JEM-ARM200F)。超高速カメラによる最大1600枚/秒での動画撮影や–クライオ電子顕微鏡法に必要な–170 ℃の低温から、800 ℃の高温まで幅広い温度で実験を行える環境が備わっている。(写真提供:太田拓実氏)

 

注3 一次反応

物質AがBへと変化する反応を考えたときに、反応の速度が物質Aの濃度に比例するような反応。この場合、物質Aの濃度は指数関数的に減少する。理想的な系における単分子反応においては、その反応速度は一次反応の速度式に従うことが古くから提唱されてきた。

注4 原子分解能単分子実時間電子顕微鏡イメージング(SMART-TEM Imaging)

原子分解能電子顕微鏡を用いて、分子一つ一つの構造や形状の時間変化を原子分解能で追跡する分析手法。中村教授らのグループにより独自に開発された手法で、カーボンナノチューブを担体とすることで有機分子を長時間安定に観察することが可能である。これまでに、カーボンナノチューブに内包した炭化水素分子が回転、並進運動する様子や、金属原子が化学反応を触媒する様子の動画撮影、また分子がカーボンナノチューブ表面で結晶になる様子をとらえることに成功している(2007、2008、2010、2011、2012年東京大学理学部プレスリリース参照)。
最近、日本科学未来館のHPにおいてSMART-TEM法が紹介された。
 2017年ノーベル化学賞を予想する「物質最小の動きをみる」
 http://blog.miraikan.jst.go.jp/topics/20170921NobelChem2.html

注5 カーボンナノチューブ

飯島澄男教授(現名城大学)が1991年に発見した、ダイヤモンド、非晶質、グラファイト、フラーレンに次ぐ5番目の炭素材料。炭素単層からなるグラフェンシートが直径1ナノ(10億分の1)メートルから数ナノメートルに丸まった極細チューブ状構造を有している。カーボンナノチューブはその丸まり方、太さ、端の状態などによって、電気的、機械的、化学的特性などに多様性を示し、次世代産業に不可欠なナノテクノロジー材料として注目されている。

 




日曜日, 11月 26, 2017

20171127 そこが聞きたい:憲法9条の存在意義 ルーツは「徳川の平和」 思想 家・柄谷行人 - 毎日新聞

そこが聞きたい:憲法9条の存在意義 ルーツは「徳川の平和」 思想家・柄谷行人 - 毎日新聞

https://mainichi.jp/articles/20171127/ddm/004/070/020000c
そこが聞きたい

憲法9条の存在意義 ルーツは「徳川の平和」 思想家・柄谷行人

 10月の衆院選で与党の自民、公明両党に希望の党、日本維新の会を加えた「改憲勢力」が3分の2を上回る議席を獲得したことで、今後、国会での憲法改正論議が本格化しそうだ。焦点は平和憲法の代名詞となってきた9条。安倍晋三首相は自衛隊の存在を明記したいと考えている。私たちは9条の恩恵を受けてきたのか、それとも束縛されてきたのか。9条の存在意義を思想家の柄谷行人さん(76)に聞いた。【聞き手・南恵太、写真・宮本明登】

--自民党は衆院選で「9条への自衛

 隊明記」など憲法改正4項目を公約に掲げて勝利しました。今後、憲法改正が進むと見ますか。

 これまで自民党は「憲法9条はそのままにしておいて、自衛隊を認める」という「解釈改憲」でやってきました。衆院選に際して9条を変えると言ったのは安倍首相が初めてです。ただし、自衛隊を公認する条文を憲法に付け加えるだけだというわけです。しかし、衆院選で3分の2以上の議席を取っても、国民投票になると、ただではすみません。もちろん、安倍首相はそれを予期しているでしょう。「改憲ではない。加憲だ」という説明で国民投票を乗り切れると考えているようです。

 しかし、それによって、事実上の憲法改定ができるか。「国の交戦権はこれを認めない」という9条の条文が残る以上、「加憲」は今までの解釈改憲と同じようなものです。憲法上、自衛隊は海外で戦争をすることは許されません。軍事同盟の言い換えである集団的自衛権も現行憲法では認められません。このような状態を本当に変えたいのであれば、安倍首相は堂々と憲法の改定を主張すべきなのです。しかし、それはできません。もしそうしたら、国民投票で負けますから。

--なぜ、国民投票で改憲が否決されると思われるのですか。

 9条は日本人の意識の問題ではなく、無意識の問題だからです。無意識は潜在意識と同一視されていますが、違います。潜在意識は教育や宣伝によって操作することができます。無意識はオーストリアの精神分析学者、フロイト(1856~1939年)の言う「超自我」=1=だと考えるべきです。超自我は意識を統御するものです。9条は日本人の戦争経験から来たものですが、意識的な反省によるものではありません。従って、教育や宣伝で変えることはできません。もし、9条が意識的な反省によるものであったなら、ずっと前に放棄されたでしょう。

--9条が日本人の無意識の中に根付いているのはなぜですか。

 確かに9条は連合国軍総司令部(GHQ)に押し付けられたものです。当時、GHQのマッカーサー元帥は天皇制を維持しなければ日本で大きな反抗が起こると思っていました。(象徴天皇制と国民主権を規定した)憲法1条を制定するため、当時のソ連などに「日本は変わったのだ」という説得材料としての9条でした。

 しかし、9条がGHQに強制されたことと、日本人がそれを自主的に受け入れたことは矛盾しません。実際、GHQが憲法の改定を言ってきたのに当時の吉田茂首相はそれをしりぞけました。まず、外部の力による「戦争の断念」がありました。それが良心を生み出し、それが「戦争の断念」を一層求めたのです。その意味で9条は日本人による自主的な選択です。いわば「文化」です。

--日本の歴史の中に9条を生み出す土台があったのでしょうか。

 長い戦国時代の後、戦争を否定する徳川幕府体制が生まれ、国内だけでなく、東アジア一帯の平和が実現されました。「徳川の平和」と呼ばれています。武士は帯刀しましたが、刀は身分を表す象徴であり、武器ではなかったのです。徳川の文化こそが9条の精神を先取りした「先行形態」です。ところが、明治維新後に日本は徴兵制を始め、朝鮮半島を植民地化し、中国を侵略しました。9条が根ざしているのは、明治維新以後、日本人がやってきたことに対する無意識の悔恨です。

 付言すれば、憲法1条のルーツも徳川時代に始まっています。徳川家康は天皇を丁重に扱いました。天皇を否定したら、他の大名が天皇を担いで反乱を起こすに決まっていたからです。徳川は天皇を祭り上げて、政治から隔離した上で徳川幕府体制の中に位置付けました。それは戦後憲法における「象徴天皇」の先行形態だと言えます。

--現行憲法の1条と9条の関わりをどう見ますか。

 1条と9条には相互依存的な関係があります。現在の天皇、皇后は9条の庇護者(ひごしゃ)になっています。天皇は日本国家の「戦争責任」を自ら引き受けることによって、皇室を守ろうとしていると言えます。つまり、9条を守ることは1条を守ることにもなるのです。かつては「1条(天皇)のための9条(戦争放棄)」でしたが、現在では「9条のための1条」へと地位が逆転しています。

--9条が国際社会で果たしている役割は何でしょうか。

 9条にある「戦争放棄」は単なる放棄ではなく、国際社会に向けられた「贈与」と呼ぶべきものだと思います。贈与された方はどうするか。例えば、どこかの国が無防備の日本に攻め込んだり脅迫したりするなら、国際社会で糾弾されるでしょう。贈与によって、日本は無力になるわけではありません。それによって、国際世論を勝ち取ります。贈与の力は軍事力や経済力を超えるものです。

--北朝鮮情勢が緊迫する中、そうした考え方は「現実離れしている」と反論されそうです。

 現実には、自衛隊を持っている日本は9条を「実行」していません。だから、北朝鮮にも大きな脅威を与えています。しかし、9条を実行すれば状況は違ってきます。具体的に言えば、日本が国連総会で「9条を実行する」と表明することです。それは、第二次世界大戦の戦勝国が牛耳ってきた国連を変え、ドイツの哲学者、カント(1724~1804年)が提唱した「世界共和国」=2=の方向に国連を向かわせることにもなると思います。

聞いて一言

 押し付けられた憲法9条を日本国民が変えようとしなかったのはなぜだろう。戦争に対する国民の反省にその理由を求めるなら、戦争を知らない戦後世代が増えるにつれて9条支持は弱まるはずだが、そうはなっていない。柄谷さんは国民の無意識に主因を見いだし、「9条が強制されたことと、日本人がそれを自主的に受け入れたことは矛盾しない」と説明する。では、9条を受け入れた無意識を精神分析することはできるのか。論理的な結論を導き出すのは難しいかもしれないが、「9条を考える材料」が提供されている。


 ■ことば

1 超自我

 フロイトの精神分析理論の主要概念。良心や理想に照らして自我の活動を統制する精神構造の一つ。柄谷さんは「フロイトは両親や社会のような『外』から押し付けられたものではなく、自らの攻撃欲動が外に向けられた後、内向して形成されると考えた」と解釈している。

2 世界共和国

 カントが自著「永遠平和のために」で提唱した世界秩序構想。永遠平和を実現する方策として(1)共和制国家の樹立と維持(2)自由な諸国家による「平和連合」の制度化(3)「世界共和国」の形成--を挙げた。理念上は世界共和国が望ましいが、暴力や権力による強制なしには実現することが困難なため、「消極的な代替物」として諸国家連合が提示されている。構想は国際連盟の創設に影響を与えた。


 ■人物略歴

からたに・こうじん

 1941年兵庫県生まれ。東京大大学院修士課程修了後、69年文芸評論家としてデビュー。法政大教授、近畿大教授、コロンビア大客員教授などを歴任。近著に「憲法の無意識」(岩波新書)。