日曜日, 6月 12, 2016

ヘーゲルの自己意識論:主人と奴隷(メモ)



            (ヘーゲルリンク::::::::::)  

NAMs出版プロジェクト: 3か4か?(タルコット・パーソンズ体系:本頁)
http://nam-students.blogspot.jp/2010/09/blog-post_7474.html

NAMs出版プロジェクト: ヘーゲルの自己意識論:主人と奴隷(メモ)

http://nam-students.blogspot.jp/2016/06/blog-post_47.html@


「僕たることは、自己に押しもどされた意識として、
自己のうちに帰り、真の自立態に逆転するであろう。」ヘーゲル

精神現象学、自己意識の章に出てくるヘーゲルによる主人と奴隷の弁証法(意識から自己意識へ)は、私見では以下の構図を持つ。

 主人(死を以て支配)
 奴隷
  ↓
主人-奴隷(相互承認)
  ↓
 奴隷(労働の優位)
 主人

あるいは、

主人 物 奴隷
  ↓
 主人
 奴隷 物
  ↓
 奴隷 物
 主人

(主人は物を間接的に扱い、奴隷は直接的に扱う)

もしくは、

主人
奴隷
 ↓
主人-物a-奴隷-物b (*承認)
      ↓
     奴隷 (*労働は直接、物を形成)
     主人

正反合ならぬ正合反? エンチ#430〜5参照

マルクスはこれを資本家と労働者に置き換えた。3ではなくカント的4段階を論理の型にしているが、レトリックは3段階である。
価値形態論だと左右反転にもう一段階使う。
また、両者とも労働が物との関係性で捉えられる。

http://dameinsei.hatenadiary.jp/entry/2013/02/03/171600
「物を形成するなかで自分が自主・自立の存在であることが自覚され、こうして、自主・自立の過不足のない姿が意識にあらわれる。物の形は外界に打ち出されるが、といって、意識と別ものなのではなく、形こそが意識の自主・自立性の真の姿なのだ。かくして、一見他律的にしか見えない労働のなかでこそ、意識は、自分の力で自分を再発見するという主体的な力を発揮するのだ。」(同上、137頁)

https://www.nagaitoshiya.com/ja/1999/master-slave-dialectic-sadism-masochism/

主人と奴隷の弁証法は、『精神現象学』の「自己意識」の章に出てくる。ヘーゲルによれば、「自己意識は即かつ対自的に存在するが、それは、自己意識が小文字の他者に対して即かつ対自的である、つまりもっぱら承認されたものとして存在するかぎりにおいて、かつそのことによってである」[Hegel; Phaenomenologie des Geistes,S.141]。
ヘーゲルの表現は難解だから、分かりやすく説明しよう。
第1段階:例えば、ある人が、前人未到と思われる土地を発見し、「ここはオレの土地だ!」と宣言したとする。そう宣言することは誰にでもできるし、納得しているのは宣言している本人だけである。この真理の主観的段階は、即自的といえる。
第2段階:ところが後から「そこは、実は私が最初に見つけた土地だ」と言い出す男が現れたとする。するとさっきの即自的で主観的な真理は他者によって否定されることになる。これが弁証法の対自的段階である。
第3段階:当然その土地が誰のものかをめぐって、二人の間で争いが起きる。二人は、たんに主観的な真理ではなく、相互主観的(社会的)に承認された客観的真理を求めるようになる。相互承認された真理は、ヘーゲルの弁証法では、即かつ対自的であると言われる。
私と他者という二つの自己意識は、自立的であろうとして、存在を賭けた戦いを行う。それゆえ二つの自己意識の関係は、両者が生死を賭けた戦いを通して、自分自身とお互いの真を確かめるべく規定されている。両者は戦わなければならない。なぜなら両者は、それ自体で存在しているという自分の確信を他者において、そして自己自身において真理へと高めなければならないからである。
自己意識が自立的であり、自分の権利を全うしようとするならば、他者から承認されなければならないが、それが不可能なら相手を殺すしか他はない。だがこのように死によって真を確かめることは、そこから出てくるはずの相互承認された真理を、そしてそれゆえにまた自己自身の確信一般をも破棄してしまう。
意識は、自分の自立的存在を他者に認めさせようとして、他者と戦った。もし他者を死に至らしめてしまえば、自分を勝利者として認めてくれる他者をも失うことになってしまう。自己意識は自立的であろうとするならば、自立的であってはならないのであって、相手が「言うことは何でも聞くから殺さないでくれ」と哀願してきたときには、敵の命を救って、彼を奴隷にしなければならない。こうして自己意識は奴隷から主人として承認される存在となる。
奴隷は、主人の命令で労働し、主人は遊んで暮らす。奴隷の労働の果実は主人に取り上げられ、奴隷はそのおこぼれしか享受することができない。主人は自立的で、奴隷は非自立的である。しかし主人はやがて労働することを忘れるようになる。主人は奴隷がいなければ生きていけなくなる。ここにおいて主人と奴隷の関係が逆転し、主人が非自立的、奴隷が自立的存在となる。
「それゆえ、自立的意識の真理は奴隷の意識である。この自立的意識は、最初は確かに自己の外に現れ、自己意識の真理としては現れない。しかし、支配の本質が、支配がそうなろうと欲したところのものの逆であることを支配が示したように、おそらく隷従の方も、それが徹底して行われるならば、隷従が直接そうであるところのものの逆になるであろう。隷従は、自己内へと押し返された意識として自己へと立ち帰り、真の自立性へと逆転していくであろう」[Hegel; Phaenomenologie des Geistes,SS.147-148]。
以上はヘーゲルの説明である。今回は、かつてサルトルがやろうとしたこと、サドとマゾの間に、ヘーゲルの主人と奴隷の弁証法の関係を見出すことをしてみよう。そして前回分析した金属バット殺害事件にSM関係がなかったかどうかも考えてみよう。

ヘーゲルの自己意識論:主人と奴隷
http://philosophy.hix05.com/Hegel/hegel09.jiko.html
主人と奴隷の関係は、一見して一方的な関係に見える。しかしよく見るとそうではない。両者は互いに相手を前提として成り立つ。奴隷が存在しなければ主人はありえないように、両者は一体となって初めて意味を持つようになるのだ。

そこでヘーゲルは、主人―奴隷関係の中に潜んでいる弁証法的な契機を明らかにしていく。

まず、主人は死の威力をもって奴隷を支配する。奴隷は死の脅威に怯えて主人に服従する。つぎに主人は奴隷の労働を通して物を獲得する。奴隷は奴隷で、労働を通して直接物にかかわり合う。しかし、この過程から次のような事態が生じる。

主人は奴隷を支配することを通じて、自分の自立性を獲得できているように見えるが、このことは、いいかえれば、主人の自立性は奴隷との相対的な関係に依存していることを示している。主人は奴隷がいなくなれば主人であることをやめる、ということは、人間としての自立性を失うことを意味する。もはや主人でなくなったものは、物とのかかわりも失うからである。

ところが奴隷の方は、たとえ主人がいなくなったとしても、少なくとも人間としての自立性を失うことにはならない。何故なら、奴隷は労働を通じて直接物にかかわっているのであるし、そのことを通じて人間としての本質に即した生き方をなしえているからだ。人間というものは、労働の経験によって、自分(自己意識)の本質を実現する可能性をつかむのである。

労働について、ヘーゲルは次のように言う。

「労働とは欲望を抑制し、物の消滅にまで突き進まず、物の形成へと向かうものである・・・物を否定しつつ形をととのえる行為というこの中間項は、同時に、意識の個性と純粋な自主・自立性の発現の場でもあって、意識は労働する中で自分の外にある持続の場へと出ていくのだ。こうして労働する意識は、物の独立を自分自身の独立ととらえることになる・・・一見他律的にしか見えない労働の中でこそ、意識は、自分の力で自分を再発見するという主体的な力を発揮するのだ」

人間の本質実現は労働を通じてもたらされる、とするこの思想は、マルクスに多大な影響を与えた。マルクスもまた、労働こそが人間の本質を実現する過程だと考えたのである。そして資本主義社会においては、支配者たる資本家は他人の労働に依存している限り、ヘーゲルのいう「主人」と同じ立場にある。一方ヘーゲルのいう「奴隷」である労働者階級は、労働を通じて人間の本質実現をできる立場にある。それ故、資本主義社会が消滅して共産主義社会がやってくれば、労働するものは、労働を通じて、自己の人間性を全面的に開花させうる立場になる。そうした社会では、人間性は何物にも妨げられることなく、自由でのびのびと花開くことになるだろう。そうマルクスは考えたわけだが、その思想の芽が、ヘーゲルの主人―奴隷関係の議論の中にあったわけである。
 _____

マルクス『経済学・哲学草稿』(1844年)――第三草稿〔二〕私有財産と共産主義
http://web1.nazca.co.jp/hp/nzkchicagob/DME/KeitetuSoukou32.html
共産主義は否定の否定としての肯定であり、それゆえに人間的な解放と回復との、つぎの歴史的発展にとって必然的な、現実的契機である。共産主義はもっとも近い将来の必然的形態であり、エネルギッシュな原理〔das energische Prinzip〕である。しかし共産主義は、そのようなものとして、人間的発展の到達目標――人間的な社会の形姿――ではない(36)。  
マルクス『経済学・哲学草稿』――第三草稿〔五〕ヘーゲル弁証法と哲学一般との批判
http://web1.nazca.co.jp/hp/nzkchicagob/DME/KeitetuSoukou35.html  

それゆえ、一つの側面からすれば、ヘーゲルが哲学へと止揚する現存なるものは、現実的な宗教、国家、自然ではなくて、すでに知識の対象となった宗教そのもの、すなわち教義学であリ、おなじく法律学国家学自然学なのである。したがって一つの側面からいえば、ヘーゲルは現実的な存在と対立するとともに、直観的な非哲学的な学問とも、またはこの存在の非哲学的な概念とも対立しているわけだ。だからこそヘーゲルは、それらのよく通用する諸概念に反対するのである。

 他面では、宗教的等々の人間は、ヘーゲルにおいてその最後の確証を見いだすことができる。

 ところで、いまやヘーゲルの弁証法の積極的な諸契機――措定の規定の内部での――をとらえねばならない。

 (a) 外在態を自己のうちに取りもどす対象的な運動としての止揚。――(41)《これは対象的本質をその疎外の止揚によって獲得するということについての、疎外の内部で表現された洞察であり…

 (自己自身から疎外された人間は、また彼の本質から、すなわち自然的で人間的な本質から疎外された思想家でもある。それゆえ彼の諸々の思想は、自然と人間との外部に住んでいる固定した精霊どもである。ヘーゲルは彼の論理学のなかでこれらの固定した精霊をすべて集めて閉じこめ、それらの各精霊をまず否定として、すなわち人間的思惟の外在態としてとらえ、それから否定の否定として、すなわちこうした外在態の止揚として、人間的思惟の現実的な発現としてとらえたのである。しかし、それ自身なお疎外のうちにとらわれているので、――この否定の否定は、一方ではその疎外態において精霊どもを再興することであり、他方ではこれらの固定した精霊の真の現存としての究極の行為で満足すること、すなわち、そのような現存としての外在態のなかで自己を自己に関係させること〔das Sichaufsichbeziehen〕である。《すなわちヘーゲルは、あの固定した抽象の代りに抽象の自己内循環行為をおく。それによって彼はまず、そのもともとの日付からいえば個々の哲学に所属するこれらすべての怪しげな概念の誕生地を証明し、それらを総括し、特定の抽象態の代りに、それらの概念の全範囲を網羅しつくした抽象を批判の対象として創りだすという功績をあげたのである。)(なぜヘーゲルが思惟を主体から切りはなしたかということについてはあとで見ることにする。しかし、人間が存在しないとすれば、彼の本質の発現もまた人間的ではありえないこと、したがって思惟もまた、社会や世界や自然のなかで目、耳等々をそなえて生きている人間的で自然的な主体としての人間の、本質発現としてはとらえられなかったこと、こうしたことはすでにここでも明らかである。)》 さらにヘーゲルにあっては、この抽象が自己自身を把握し、自己自身について果てしない倦怠を感じているかぎりでは、目もなく耳もなくなにもかもない抽象的な思惟、思惟のなかでのみ運動する思惟を放棄することが、自然を実在として承認し直観にみずからを委ねようと決心することとして現われるのである。)…

以下は『経済学・哲学草稿』(光文社、長谷川訳)。

四.欲求と窮乏

…疎外の廃棄は、つねに、支配的な力としてある疎外の形式から生じてくるので、ドイツではそれが自己意識であり、政治的なフランスではそれが平等であり、イギリスでは現実的で、物質的で、独善的な実践的欲求だ。この点からプルードンを批判し、また承認しなければならない。

 わたしたちが共産主義をいまだ否定の否定として、私有財産の否定に媒介された人間的本質の獲得として特徴づけ、したがって、真の、自発的な肯定ではなく、私有財産に始まる肯定として特徴づけるとき、……〔以下、草稿の左側がちぎれて紛失しているので判読不可能〕……こうして、人間生活の現実的疎外は克服されずに残り、しかも、人がそれを疎外として意識すればするほど疎外は大きくなるから、疎外が克服されるとすれば、共産主義の実現によって克服されるほかはない。


(存在、本質、概念。一般性、特殊性、個別性。肯定、否定、否定の否定。単純な対立、決定的な対立、克服された対立。直接性、媒介、媒介の克服。自己のもとにある、外化、外化からの帰還。即自、対自、即自かつ対自。統一、区別、自己区別。同一性、否定、否定力。論理、自然、精神。純粋意識、意識、自己意識。概念、判断、推論。)

上は26歳のマルクスによる「『精神現象学』の最終章「絶対知」からの抜き書き」。(  )内の五行だけがマルクスの追加した箇所。


マルクス『1857-58年草稿』を読み始めてみる | Internet Zone::WordPressでBlog生活
http://ratio.sakura.ne.jp/archives/2008/06/07220400/
二つめのプラン。〔草稿集<1>、329ページ〕

資本。
 I、一般性
  (一)
   (a)貨幣からの資本の生成。
   (b)資本と労働(他人の労働によって媒介された)。
   (c)資本の諸要素、それが労働にたいしてもつ関係にしたがって分解されたもの(生産物。原料。労働用具)。
  (二)資本の特殊化。
   (a)流動資本。
   [(b)]固定資本。
   [(c)]資本の通流
  (三)資本の個別性。
   [(a)]資本と利潤。
   [(b)]資本と利子。
   [(c)]利子および利潤としてのそれ自身から区別された、価値としての資本。
 II、特殊性
  (一)諸資本の蓄積。
  (二)諸資本の競争。
  (三)諸資本の集積(同時に質的な区別でもあり、また資本の大きさと作用の尺度でもある、資本の量的な区別)。
 III、個別性
  (一)信用としての資本。
  (二)株式資本としての資本。
  (三)金融市場としての資本。  


               /\
              /  \
           金融市場としての資本
            /______\
           /\ <個別性>/\
          /  \    /__\
      信用としての資本\  /株式資本としての資本
        /______\/______\
       /\              /\
      /価値\ マルクス1857~8年/  \
     / 個別性\  『資本論草稿』 /諸資本の集積
    /利潤__利子\ ノート2より /______\
 労働用具<一般性> /\      /\ <特殊性>/\
生産物  原料   /通流\    /  \    /  \
 /=諸要素\  /特殊化 \ 諸資本の蓄積\  /諸資本の競争
/貨幣__労働\/流動__固定\/______\/______\
         資本  資本

左下で完結しているのが特徴だ。現行資本論も第一部で完結しているという見方もある。
ただし、ある種の円環が全体にあり、ヘーゲル流のトリアーデがそれを示唆する。


参考:
               /\
              /  \
             / 利子 \
            /______\
           /\ <分配論>/\
          /  \    /__\
         / 利潤 \  / 地代 \
        /______\/______\
       /\              /\
      /  \    宇野弘蔵    資本の\
     / 資本 \  『経済原論』  /再生産過程
    /______\        /______\
   /\<流通論> /\      /\ <生産論>/\
  /  \    /  \    /  \    /  \
 / 商品 \  / 貨幣 \  /資本の \  /資本の \
/______\/______\/_生産過程_\/_流通過程_\


追加:
資本論1:24
第二四章 いわゆる本源的蓄積
第七節 資本制的蓄積の歴史的傾向
《…資本独占は、それとともに──またそれのもとで──開花した生産様式の桎梏となる。生産手段の集中と労働の社会化は、それらの資本制的外被と調和しえなくなる時点に到達する。この外被は粉砕される。資本制的私有財産の葬鐘が鳴る。収奪者たちが収奪される。
 資本制的生産様式から発生する資本制的取得様式は、したがって資本制的な私的所有は、自分の労働を基礎とする個人的な私的所有の第一の否定である。だが、資本制的生産は、自然過程の必然性をもって、それじしんの否定を生みだす。これは否定の否定である。この否定は、私的所有を再建するわけではないが、しかも資本主義時代に達成されたもの──すなわち協業や、土地の・および労働そのものによって生産された生産手段の・共有──を基礎とする個人的所有を生みだす。》



> 第三手稿 

>  〔ヘーゲルの弁証法と哲学一般の批判〕 

>   一例をあげよう。ヘーゲルの『法の哲学』においては、

揚棄された私有財産は道徳にひとしく、

揚棄された道徳は家族にひとしく、

揚棄された家族は 

> 市民社会にひとしく、

揚棄された市民社会は国家にひとしく、

揚棄された国 

> 家は世界史にひとしい(58)。現実においては私法・道徳・家族・市民社 

> 会・国家等々はあいかわらず存続している。ちがった点といえば、それらが 

> 契機になったということにあるにすぎない。すなわち、孤立させたら妥当性 

> を欠いてしまい、たがいに他を解体したり産出したりする人間の現存態ない 

> し存在様式に、それらがされたというこの点にとどまる。運動の契機。 

>  

>  58 以上は『法の哲学』に登場する主要なカテゴリーを、その順序のまま 

> に書きしるしたものである。  

(河出 世界の大思想2-4)


 『法の哲学』
               /世界史
              /__\
             /\国家/国際法
            国内法\/__\
           /<倫理=共同世界>       
         教育と解体   福祉行政と職業団体
         /\家族/\   /\市民/\
        /婚姻\/資産\ /欲求\/司法\
       /\               /\
      /__\   <客観的精神>   /__\
     不法に対する法          /\善と良心 
    /__\/__\         /__\/__\
   /\ <法>  /\       /\  <道徳> /\
  /__\    /__\     /__\     /__\
 /\所有/\  /\契約/\   /企図と責任   /\意図と福祉 
/(私有財産)\/__\/__\ /__\/__\ /__\/__\


             

5 Comments:

Blogger yoji said...

以下は『経済学・哲学草稿』光文社、長谷川訳より。

四.欲求と窮乏

…疎外の廃棄は、つねに、支配的な力としてある疎外の形式から生じてくるので、ドイツでは
それが自己意識であり、政治的なフランスではそれが平等であり、イギリスでは現実的で、
物質的で、独善的な実践的欲求だ。この点からプルードンを批判し、また承認しなければならない。
 わたしたちが共産主義をいまだ否定の否定として、私有財産の否定に媒介された人間的
本質の獲得として特徴づけ、したがって、真の、自発的な肯定ではなく、私有財産に始まる
肯定として特徴づけるとき、……〔以下、草稿の左側がちぎれて紛失しているので判読不
可能〕……こうして、人間生活の現実的疎外は克服されずに残り、しかも、人がそれを疎外
として意識すればするほど疎外は大きくなるから、疎外が克服されるとすれば、共産主義の
実現によって克服されるほかはない。

__

以下は26歳のマルクスによる「『精神現象学』の最終章「絶対知」からの抜き書き」より。
(  )内はマルクスの追加した箇所。


(存在、本質、概念。一般性、特殊性、個別性。肯定、否定、否定の否定。
単純な対立、決定的な対立、克服された対立。直接性、媒介、媒介の克服。
自己のもとにある、外化、外化からの帰還。即自、対自、即自かつ対自。統一、
区別、自己区別。同一性、否定、否定力。論理、自然、精神。純粋意識、意識、自己意識。
概念、判断、推論。)

7:16 午前  
Blogger yoji said...


http://makorin.blog.jp/archives/52113500.html
2017年07月05日
マルクス「経済学—哲学手稿」

マルクス「経済学—哲学手稿(1)」
『世界の大思想2—4 マルクス 経済学・哲学論集』(三浦和男訳、河出書房)

1 『一八四四年の経済学―哲学手稿』マルクスのこの労作は三つの手稿というかたちでわれわれにのこされている。そしてそれらのおのおのにはそれぞれ独自のページづけが(ローマ数字で)ほどこされている。第二手稿のばあいは、わずかに最後の四(XL—XLIII)ページが保存されているにすぎない。第一手稿の二七ページのおのおのは二本のたて棒によって三つの欄(コラム)にわかたれ、各ページのおのおのの欄のうえには、題目「労働賃金」「資本利潤」「地代」が冠されている。一七ページ以降はもっぱら「地代」と冠された欄にだけテキストが記入されている。そして二二ページ以降、第一手稿の最後にいたるまで、マルクスは前部にだされた題目など眼中になく、三つの欄いっぱいに書いている。この版においては(本訳書のばあいも同様)、これら六ページのテキスト(XXII—XXVII)は、編者による題目「疎外された労働」のもとにかかげられている。第三手稿のうちには、マルクス自身によりページづけをほどこされ、二つの欄にしきられた大判の四三ページがふくまれている。第三手稿の最後の部分(XXXIX—XL)に序文が書かれている。これはこの版(本訳書もおなじ)においては、第一手稿のテキストにさきだつ最前部におかれた。
 マルクスの労作の表題および〔……〕におさめられた手稿各部の題目は、マルクス・レーニン主義研究所の手になるものである。手稿の各


 マルクスの労作の表題および〔……〕におさめられた手稿各部の題目は、マルクス・レーニン主義研究所の手になるものである。手稿の各部分の配列は、前部におかれた序文と、序文におけるマルクスの指示にしたがって末尾におかれた一章「ヘーゲルの弁証法と哲学一般の批判」とをのぞいては、マルクスが書きおろした順序にしたがっている。〔ロシア語版注〕

第三手稿
〔ヘーゲルの弁証法と哲学一般の批判〕
 一例をあげよう。ヘーゲルの『法の哲学』においては、揚棄された私有財産は道徳にひとしく、揚棄された道徳は家族にひとしく、揚棄された家族は市民社会にひとしく、揚棄された市民社会は国家にひとしく、揚棄された国家は世界史にひとしい(58)。現実においては私法・道徳・家族・市民社会・国家等々はあいかわらず存続している。ちがった点といえば、それらが契機になったということにあるにすぎない。すなわち、孤立させたら妥当性を欠いてしまい、たがいに他を解体したり産出したりする人間の現存態ないし存在様式に、それらがされたというこの点にとどまる。運動の契機。

58 以上は『法の哲学』に登場する主要なカテゴリーを、その順序のままに書きしるしたものである。

9:16 午前  
Blogger yoji said...

 『法の哲学』
               /世界史
              /__\
             /\国家/国際法
            国内法\/__\
           /<倫理=共同世界>       
         教育と解体   福祉行政と職業団体
         /\家族/\   /\市民/\
        /婚姻\/資産\ /欲求\/司法\
       /\               /\
      /__\   <客観的精神>   /__\
     不法に対する法          /\善と良心 
    /__\/__\         /__\/__\
   /\ <法>  /\       /\  <道徳> /\
  /__\    /__\     /__\     /__\
 /\所有/\  /\契約/\   /企図と責任   /\意図と福祉 
/(私有財産)\/__\/__\ /__\/__\ /__\/__\

9:32 午前  
Blogger yoji said...

>>174
> 吉本隆明『心的現象論 本論』(文化科学高等研究院)
> 『古事記』の初期神話で性(交)行為や、子を生むことについての記述は、いくつかある。
>  (1)伊耶那岐の命と伊耶那美の命が淤能碁呂島に天降って、八尋殿とその支柱である天
> の御柱を出現させる。
>
>  (3)(1)(2)に述べたとおなじ記述のあとで、伊耶那岐と伊耶那美のふたりは、どうして性
> (交)行為をするのかわからなかったが、カワセミがやってきて首尾をたててつがうのをみて、
> それをまねて性交して国生みをしたという記載が『日本書紀』に一書の記述としてでてくる。
>
>  どれも性(交)行為の結果子どもが生まれるということを認知できなかったきょうだいの男
> 女が始祖だということが特徴的だといっていい。
>
>  第二には兄弟姉妹と、婚姻する異性の男女とは同一化されていて、母系の氏族にまつわ
> る神話や伝承であることを暗示するような、性(交)行為を知らない男女という認識が介在し
> ている。
>
>
> 佐々木真‏ @sasaki_makoto
> イザナギまたはイザナキ(伊弉諾/伊邪那岐/伊耶那岐)は、日本神話に登場する男神。
> 『古事記』では伊邪那岐命、『日本書紀』では、伊弉諾神と表記される。イザナミ(伊弉冉、
> 伊邪那美、伊耶那美、伊弉弥)の兄であり夫。アマテラスやスサノオ等多くの神の父神であり、神武天皇の7代先祖とされる。
> 20:28 - 2017年6月7日

9:38 午前  
Blogger yoji said...

>>179
>  以下、多田道太郎「プルードンの家庭論」『プルードン研究(河野健ニ編)』岩波書店1974.9、
> p312~314より引用です。
>
>  《決定的に相異なる両性の協力(これがまたプルードン思想の要であるわけだが)というのが、
> 人間が「社会」を形成し、進化させてゆくための、基礎的な必要条件である。ちがった性がまず
> 存在し、ついでそれらが協力してゆくということがなければ、社会の形成はありえないのである。
> 主体が男女という二元に分れることが、じつは客観世界において動物性のほかに「社会」が
> 形づくられてゆく基礎となる。(したがって、男女の性別を縮小化しようというさまざまの主張、傾
> 向は、ブルードンによってきびしく排斥される。こうした傾向はけっきょく「社会」の無化につな
> がるものだからである。また、このブルードンの考えは、「社会」の基礎が生物学的、心理学的
> 主体の条件のなかに横たわっているという信念をみちびきだす。)
>  …
>
>  愛はこうして、プルードンによれば、所有や労働と同じく、アンチノミーの一形式である。生と死
> とのあいだにひきさかれたアンチノミーである。したがって、愛は均衡(equilibre)を自選的に(と
> いうことは、他者、第三者の介入なしに、ということである)求める。その均衡は、愛よりもより
> 高次のシステムに属するはずである。
>
>  或る種の詩人、思想家、宗教家によって至高のものとみなされている愛が、ブルードンの
> ばあい、「結婚の素材」としてしか扱われていないことは注目に価する。結婚という制度のなか
> で、これは低い次元に属している。とはいうものの、愛はいかに低い次元においてであるに
> せよ、するどい矛盾を内包していることにも注意を向けざるをえない。矛盾をはらんでいるから
> こそ、愛は均衡の法則に服し、より高次の「総合」にいたりつくのである。》

10:11 午前  

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